ポトマック河畔より#35 | 銃と裁判所と党派対立

これは、丸紅グループ誌『M-SPIRIT』(2021年1月発行)のコラムとして2020年11月に執筆されたものです。

丸紅米国会社ワシントン事務所長 峰尾 洋一

本稿が起されているのは、11月3日の投票日から3週間を経て、下院の一部を除いておおむねの選挙結果が判明した時点である。筆者の居住するバージニア州は大統領・連邦・州議会・知事全てを民主党が押さえる結果となった。直近バージニアが民主党州となるのは、オバマ政権誕生の2008年以来だが、さかのぼると南北戦争終了から1970年代までは、ほぼ民主党が政治を独占する州であった。

注意すべきは、当時の民主党は、南北戦争の南軍の流れを引く「南部」民主党であったことだ。この民主党の支持者の多くはその後公民権運動を経て共和党にくら替えした。筆者が最初にアメリカに赴任しバージニア州に住んだ20年前は、こうした南部の伝統を継ぐ共和党支持者がいまだ州人口の相応の部分を占め、完全な共和党州だった。筆者が英語圏に来て覚えた単語の一つ「Carpetbagger」は、南北戦争後に北部から乗り込んで、南部の利権を取り上げ、財産を築いた北の資産家たちが、布製のカバンを下げていたのをあざけって称したものだ。当時知り合ったアメリカの知人は、南北戦争から150年を経た後でも「北」への複雑な感情を隠さなかった。

西部開拓時代さながら銃乱射事件が発生する

今回取り上げるのは、こうした南北の境に位置するバージニア州で起きた、裁判所での銃撃事件である。判決を不服とする被告とその家族が銃を乱射し、5名が射殺された。

これは西部開拓時代の巡回裁判所での話ではない。1912年、アメリカで はT型フォードが年間30万台以上生産され、日本では明治が終わりを迎えた年である。そんな時代に、ノースカロライナ州境に近いバージニア州南部のキャロル郡で、この事件は起きた。

ことは、一人の青年が、地元の催し物で出会った女性にキスをしたことから始まる。女性には付き合っている別の男性がおり、当然の様にいさかいになった。いさかいはその場だけで収まらず、翌朝、街の人が教会の礼拝に集う中で、両者が友人や親族を巻き込んでの乱闘となる。礼拝の場で武器を持ち出した青年とその弟は治安びん乱の罪に問われ、隣のノースカロライナ州に逃亡するが、程なく逮捕された。

引き渡された二人を連行する副保安官と御者の前に、馬で乗り付けて遮ったのが、本事件の主役となるフロイド・アレンだった。彼は、この兄弟の叔父にあたり、アレン家の家父長であり、大地主で商店を経営する地元の名士であった。彼は自分の家族が馬車に縄で縛られているのを見て激高し、道を開けるように指示する副保安官を自分の銃で殴りつけて昏倒させた上、兄弟を解放した。その事件の後、フロイドは兄弟を裁判所に出頭させたが、州検事は公務執行妨害や暴行容疑でフロイドを含むアレン家の数名を起訴した。

アレン家騒動から150年
21世紀の今日にも残る問題とは

この起訴を決めた州検事は共和党であり、民主党のアレン家の政敵であったことが、ことを複雑にした。同年3月に行われた裁判で、フロイドは事前に、自分を無罪にするよう判事・検事・州知事に脅迫状を送り付けていたが、陪審員評決は有罪。フロイドと、傍聴席にいたアレン家の人間は、一年の懲役の判決を聞いた直後に銃を抜き、発砲を始めた。検事・判事側も反撃し、合計50発の銃弾が飛び交うこととなった。硝煙が収まった時、裁判官・保安官・検事・陪審員・証人の5名が銃弾に倒れ、フロイド・アレン自身を含む7名が負傷した。保安官が射殺されてしまったキャロル郡に法執行能力はなく、アレン家容疑者の捜索は民間の探偵社に外注されたが、程なく容疑者全員が逮捕された。

1912年5月。フロイドと甥(一説には息子とも言われる)のクロードに第一級殺人の罪で死刑判決が下された。南部民主党の名士だったフロイドの死刑に対して減刑嘆願の声が上がったが、州知事はこれを認めず、翌年3月、フロイドとクロードの2名は電気椅子によって処刑された。

この事件を構成する要素、例えば、銃乱射、裁判への政治の影響、党派間の緊張、個人の権利への考え方など、個別に見れば、21世紀の今日にも残る問題であることが分かる。

動員するのが家族からインターネットで募集された集団へ、脅迫状送付からソーシャルメディア上の誹謗中傷へ、個人の暴力沙汰がダウンタウンでの抗議活動へと、手段は変わったが、相いれない相手への接し方は一貫している。これを批判するのは容易だが、アメリカの成長の背景に、こうした、自分の主張を通し、妥協せず、意に添わねば衝突も辞さない文化があったことは言をまたない。アメリカが今の延長で成長するとすれば、今後も手段を変えつつ、こうした原則は続くのではないかと考える。