ポトマック河畔より#31 | 禁酒法に見る米国政治のダイナミクス

これは、丸紅グループ誌『M-SPIRIT』(2020年1月発行)のコラムとして2019年11月に執筆されたものです。

丸紅米国会社ワシントン事務所長 峰雄 洋一

禁酒法は過去のものではない。アメリカ50州の内33州では州内の自治体にアルコールの販売いかんの判断を委ねており、禁酒法施行から100年後の現在でも酒販売になんらかの規制を課している郡や市町村が500以上存在する。Jack Daniel'sの本社があるテネシー州のムーア郡は未だに ”Dry”(酒の販売禁止)だ。

アメリカが憲法で酒の製造・販売等を禁止したのは1920年から1933年にかけてだが、飲酒による家庭内暴力や育児放棄は独立以前からの社会問題であった。また禁酒・節制(temperance)という考え方はアメリカに限らず古くから存在し、当初は道徳観に基づく啓蒙の動きであった。

道徳的な禁酒に対して存在したのは、酒販売の経済効果や酒税による安定的な政府財源の観点からの酒販売の正当化である。こうした経済的な存在感は業界と政界と癒着のイメージを生んだ。禁酒法成立に大きく貢献したのはAnti-Saloon League(ASL)という政治団体だが、彼らは酒が販売されるサロンこそが業界の不当なロビーの場であり政治腐敗を生む、と主張した。ドイツ系アメリカ人を中心としたビール業界はこれに反発したが、1914年に始まった第一次世界大戦(対独開戦)で抵抗は影を潜め、1920年に憲法改正が成立した。

過度の飲酒による家庭内暴力・育児放棄の主な犠牲者だった女性は禁酒に大きな役割を果たした。キャリー・ネーション(1846-1911)はアルコール中毒の男性との結婚の経験を経て禁酒運動の活動家となった。ネーションは、バーに乗り込んで讃美歌を歌い、酒類や家具を手斧で破壊した。逮捕は30回に及び、罰金は講演料や「ラム酒に死を」と刻印した記念手斧の販売で賄った。ネーションの死後も女性は禁酒法成立まで重要な役割を果たしている。前述のASLはこれら女性票をもくろんで婦人参政権を積極的に支持し、禁酒法に係る憲法修正18条の翌年には女性参政権を認める修正19条が成立している。

元々は道徳観に依拠する禁酒であるが、禁酒法は婦人参政権と並んで当時の進歩主義層からも支持を得た。有名な経済学者のアーヴィン・フィッシャーは自らも酒をたしなまず、飲酒が公共の健康と経済的生産性を阻害するとして禁酒法を擁護する論文を複数発表している。

禁酒法が13年間で廃止された背景には、「取り締まりが困難だった」「販売や輸送等は禁止されたが飲酒自体は許容された」「違法な酒の流通が盛んに行われた」「国境を越えて飲酒する者が増え本来の目的が果たせない上自国産業へのダメージになった」「1929年からの大恐慌で景気てこ入れや政府財源が必要となった」等が挙げられる。禁酒法廃止を唱えたルーズベルト大統領が地滑り的勝利を挙げた翌年の1933年、修正18条を廃止する修正21条の成立によって禁酒法は終焉(しゅうえん)を告げた。

酒販売の再開に新たなビジネス機会を見出すものも登場した。後の大統領ジョン・F・ケネディの父親であるジョセフ・ケネディは、禁酒法廃止直前に英国からのスコッチ・ウィスキーの独占輸入販売権を取得、巨利を得た。ケネディはルーズベルト大統領の息子を通じて英国のチャーチル首相とも知遇を得、その後自らが関与する鉄道会社の未公開株の譲渡などの便益を与えることで、この権利を獲得したといわれている。

道徳観にもひも付く自らの政治信条に忠実で、善と悪の感覚に敏感。それらをさまざまなアドボカシー・ロビー活動を通じて政策に反映させていく。その中に活動家が表れて注目を集める。進歩主義層と保守層が主張を戦わせる一方で(時に特定の利権に関連する)経済合理性が追及されていく。その動きが大きな経済危機を経てさらに調整される。禁酒法の成立と廃止の中で見られたこのダイナミクスは、21世紀のアメリカにも脈々と息づいている。