ポトマック河畔より#11 | 大学に行く価値

大学に行く価値はあるのか。最近の米国でよく聞く声である。世界最高水準ともいわれる米国の大学教育に何が起きているのか。

これは、丸紅グループ誌『M‐SPIRIT』(2015年3月発行)のコラムとして2015年2月に執筆されたものです。

丸紅米国会社ワシントン事務所長 今村 卓

学費は膨らんでも割に合う大学進学

高すぎる学費。現在の米国の大学教育への批判は、この点に集中している。実際、授業料(諸経費含む)は過去20年間で3倍に膨らんだ。この間に約1.5倍になった消費者物価と比べても著しい上昇率である。実際、今年の4年制大学の授業料は私立で年間平均3万1000ドル、その中でも有名大学は特に高く、最高のコロンビア大学は5万1000ドルである。州立大学は同平均9000ドル強と私立よりも割安だが、授業料の最近の上昇率は州財政の悪化のため、私立を上回っている。しかも、私立も公立も、授業料に加えて年間で合計1万ドルを超える居住費等の負担が必要になる。

この膨らんだ学費の支払いは、学生にとって重い負担になっている。米国では平均すれば学費の3割は奨学金で賄われ、4割は親や親類が負担しているが、残り3割は学生個人の負担である。それはアルバイトで賄える金額ではなく、学生の約7割が学生ローンを利用しているという。卒業時に抱える負債額も少なくなく、2013年に大学を卒業した学生で平均2万8000ドル、国全体のローン残高も2014年9月末時点で1兆1000億ドルに達しているという。その返済の大変さは、景気回復の進展とともに住宅や自動車など大半のローンの延滞率が低下傾向にあるのに、学生ローンだけは延滞率が11%前後に高止まりして、各種ローンの中で最高になっていることからも分かる。

しかし、これだけ学費とローンの負担が膨れ上がり社会問題になっても、労働経済学の観点からは、米国において大学に行く価値は余りあるほど大きいという。その証拠が、大卒・高卒間の賃金格差が圧倒的に大きく、その拡大が止まらないことである。同格差は80年代初期には64%だったが、それ以降は上昇が続き2013年には98%に達した。しかも生涯所得では大卒者が高卒者を平均80万ドル上回るから、将来の所得が現在の所得より価値が低いことなどを勘案しても、3万ドル近い学生ローンなら将来への投資としては平均的にみて十分割に合うのである。オバマ大統領も、最近の演説の中で、「大学の学位はミドルクラスへの最も確実なチケットである」と述べている。

このままでは米国の活力を奪う恐れ

ただ、最近は膨らんだ大学の学費が米国の社会と経済に及ぼす悪影響も目立つ。何よりも、元が取れる投資なのに大学進学が頭打ちになっている。2013年の4年制大学の24歳以下の学生数は792万人。20年前より約4割多いが、2年前がピークである。人口増加が続く米国では、大卒・高卒間の賃金格差とその拡大傾向からみて、大学へ進む学生は増えるはずであり、現に2000年代までは増えていた。その傾向が止まった以上、高い学費が払えず進学を断念する人が増えたと考えるべきだろう。

次に、膨らんだ学費が同時発生の金融危機や緩慢な景気回復と相まって、大学進学の投資収益率を低下させたとみられる。厳しい労働市場の中で4年制の大学教育を必要としない職業に就く大卒者が増えたこともあり、大卒者の実質賃金は10年前よりも3%近く減った。それでも賃金格差が広がったのは、高卒者の労働環境がもっと厳しく、実質賃金が7%強も減ったからである。今の米国では、大学進学は元の取れる投資というよりは、実質賃金の目減りを抑えるための投資なのである。

大学進学という投資の収益が非常に少なくなるか、マイナスに陥る専攻や大学も増えたようである。大学卒業から20年間に得られる収入から大学の学費と大学に行かなかった場合に得られる収入を差し引いた金額を「収益」とすれば、大学を問わず工学専攻なら「収益」は50万ドル近くになり、大学がカリフォルニア大学バークレー校なら「収益」は100万ドル近くに達するという分析もある。一方で芸術系の専攻では、調査対象の1割強は「収益」がマイナスになるという。誤解のないようにいえば、大学の価値は「収益」の多さによって決まるものでなく、学生にとっても「収益」は大学や専攻を選ぶ判断材料の一部である。とはいえ、学生ローンの負債を抱えた多くの学生は卒業後の返済の必要から「収益」を重視するため、「収益」がマイナスの大学や専攻を選ぶ学生は少なくなり、その大学の経営も悪化して、米国から大学や専攻の多様性が失われる恐れが強まる。これも学費の膨張が招く悪循環である。

膨れ上がる学費が、米国社会の深刻な問題である格差の拡大を助長する恐れも大きい。ハーバード大学など、所得階層に関係なく才能ある学生を集めるために奨学金制度を充実させ、低所得層出身の学生の学費が極めて少ない大学は少なくない。しかし、そうした大学でもミドルクラス出身の学生の学費負担は重く負債が膨らみがちであり、入学を許可されても負担の軽い州立大学を選ぶ学生は少なくない。そのような選択をする必要がなく、幼い頃から有名大学への入学に有利になる多額の教育投資を受けられるのが富裕層の子供である。しかも、富裕層の両親は有名大学出身であることが多く、その大学は新入生の選考において卒業生の子息を優遇するレガシー制度を導入している場合も多い。

米国は、階層の固定化を嫌い、才能があり努力する個人に活躍の機会を惜しみなく与え続けてきたからこそ、長期にわたり国としての活力と世界をリードする地位を維持し続けてきた。その意味では、大学の学費の膨張は多くの才能ある個人を恵まれない環境に埋もれさせ、階層の固定化を助長しかねない大問題といえる。最近では、学費の安いオンライン講座の急増、オバマ大統領による2年制州立大学の授業料無料化の提案など変化もみられるが、学費を膨張させた主因である大学の経営を根本から透明化するという改革の動きは起きていない。筆者は米国社会の自己変革の能力を高く評価しているのだが、この学費の膨張という問題は長く残り、米国の活力を奪っていく恐れが大きいと警戒している。