ポトマック河畔より#19 | 偽ニュースから現実の事件が起きてしまった米国

インターネット上で「偽ニュース」が頻繁に飛び交う米国では、最近ついにそれに起因する銃撃事件が発生した。しかも現場はこのワシントンである。今回はこの問題を取り上げる。

これは、丸紅グループ誌『M‐SPIRIT』(2017年1月発行)のコラムとして2016年12月に執筆されたものです。

丸紅米国会社ワシントン事務所長 今村 卓

うそのツイートが事件の引き金に

2016年12月4日、日曜日の日中のワシントン北西部のピザ店で銃撃事件が起きた。繁華街だが治安は良く、店内は家族連れでにぎわっていた。そこにライフル銃を持った男が押し入り、発砲した。幸い負傷者はなく容疑者は逮捕されたが、犯行動機とその背景となった現象は衝撃的だった。

「コメット・ピンポン」というこのピザ店が異常事態に陥ったのは、事件の1カ月余り前だった。この店が民主党候補のヒラリー・クリントン前国務長官と陣営幹部が関与する児童売春組織の拠点といううそのツイートがネット上に広がり、それが正しいと信じる右翼から経営者らが脅迫を受けるようになった

ワシントンポストによれば、きっかけは10月28日に明らかになった連邦捜査局(FBI)によるクリントン氏の国務長官時代の私用メール問題の捜査再開だった。2日後には新たに発見されたメールが小児性愛者グループと関連しているという内容が大量にツイートされ、それが匿名掲示板サイトやソーシャルニュースサイトで拡散し、極右サイトではクリントン氏を罵倒する動画が多数掲載されたという。FBI自体は投票日2日前にクリントン氏を訴追せずという結論に達したのにである。

匿名掲示板サイトでは、同時期に内部告発サイトのウィキリークスが続々と公表したクリントン陣営の選対責任者のジョン・ポデスタ氏のメールの中に多くあった「コメット・ピンポン」という店名が注目され、ここが児童売春の現場だとの投稿が続出。ついに大統領選の投票前日には「ピザゲート(#pizzagate)」というハッシュタグが現れた。翌日のクリントン氏の敗退後もツイートは減らず膨れ上がった。なお、中央情報局(CIA)はポデスタ氏など民主党関係者のメールへのサイバー攻撃は大統領選でトランプ氏の勝利を狙ったロシアの選挙干渉と結論付けたとの報道があり、オバマ大統領は政府の情報機関に対して、自らの退任までに徹底調査を指示している。

「ピザゲート」を信じる人々と同店への脅迫は増える一方で、周辺の店も巻き添えになった。偽ニュースを信じる人々が押し寄せたことで、同店や周辺店の経営者らは恐怖を感じたという。その後、ソーシャルメディアは「ピザゲート」の投稿を禁止したが、店への脅迫は止まらず、ついに自分で「捜査」しようと考えたノースカロライナ州に住む28歳の容疑者の男がライフル銃を持って同店に現れた。拘置中の容疑者を取材したニューヨークタイムズによれば、容疑者は穏やかな話し方をする礼儀正しい人物であり、店内に閉じ込められている児童を救出するつもりだったという。

偽ニュースが広がりやすくなった社会

被害者はなかったが、偽ニュースから銃撃事件が発生した現実は深刻である。この後には、トランプ次期大統領の政権移行チームに参加していた人物が「ピザゲートはうそと証明されるまで話題になり続ける」とツイートして、チームからの辞職に追い込まれた。偽ニュースを信じる人々には今回の容疑者のように外見は普通の人が少なくない。さらには、偽ニュースと知っていても政治目的のためなら利用をためらわない人が次期政権の形成に関わるレベルに存在しているのである。

しかも、新たな偽ニュースが続く。米国メディアのビジネスモデルが紙からデジタルの媒体に移り、偽ニュースの低コスト・大量発信が可能になったからである。現に偽ニュースが載るニュースサイトは「デンバー・ガーディアン」など、実在する新聞社のような名称が付けられ、コンテンツには地元の天気予報まであったという。こうした偽ニュースは閲覧者が多いため、サイト運営者が広告を獲得しやすい。生活に困った既存のメディアの記者が、自分のイデオロギーとは無関係に、高い原稿料が得られると偽ニュースを「執筆」している実態さえあるという。

偽ニュースの排除には、ソーシャルメディアを運営するテクノロジー企業による偽ニュースの削除の技術進歩や現存メディアの正確なニュース発信が欠かせない。このうち前者は有力企業による共同開発への取り組みが始まっていて今後に期待が持てる。問題はメディアであり、米国では2016年の世論調査で既にメディアを信頼している人の割合が32%しかない。共和党支持者に至っては14%である。メディアはリベラル偏向と不信感を持ち、信頼できる保守系メディアもないという。しかも、その既存メディアが経営安定へサイト有料化に乗り出したことが、偽ニュースを掲載する無料サイトにつけ入る隙を与えてしまっている。

こうした中、トランプ次期政権が明確に偽ニュースの撲滅に踏み出すという行動に出なければ、事態は改善せず、「コメット・ピンポン」に続く事件が発生してしまう恐れがある。しかし、今のところ、次期政権は先行きの好転を期待させるメッセージを発していない。米国で数多くの事業を展開し、多数のグループ社員がいる丸紅グループとしては、この現状を理解し、当面は用心深く臨むしかないのだろう。