ポトマック河畔より#43 | 議会襲撃事件に見るプエルトリコとアメリカ

これは、丸紅グループ誌『M-SPIRIT』(2023年1月発行)のコラムとして2022年11月に執筆されたものです。

丸紅米国会社ワシントン事務所長 峰尾 洋一

プエルトリコ独立派が起こした1954年の事件

プエルトリコ国旗

今回議会襲撃の話を取り上げる。ただし、2021年の1月6日の襲撃ではない。1954年に起きた、プエルトリコ独立派による議員銃撃事件である。2021年の襲撃に比べると規模は小さいものの、現役の議員が銃弾を浴びたことを踏まえれば、やはり衝撃的な事件だったことは言をまたない。

本題の前に、襲撃に至るアメリカとプエルトリコの歴史を簡単にまとめる。プエルトリコは1508年以降、約400年にわたりスペインの植民地下にあったが、南米諸国独立の動きの中で、1898年、ついにプエルトリコの自治政府が樹立される。だが自治は長続きしなかった。米西戦争中、プエルトリコはアメリカに占領され、戦後の1900年、スペインからアメリカに譲渡されてしまう。以降、プエルトリコはアメリカの一部となり、住民は市民権を得る一方、連邦政府の議員選出は認められない地位となった。1948年には、プエルトリコの独立につながる動きを厳しく禁じた法律が成立する。このようなアメリカの抑圧的なやり方に対して、独立派はプエルトリコの各地で抗議活動を起こすが、いずれも暴力的に制圧された。同年11月には、プエルトリコ独立派の2名が、当時のトルーマン大統領の暗殺未遂事件を起こす。激しい銃撃戦が行われ、警備に当たっていた警察官と襲撃側の一名が銃弾に倒れることとなった。

こうした独立機運の中で起きたのが1954年の議会襲撃だ。襲撃に加わったのは4名。リーダーは当時34歳の女性、ロリータ・レブロンだった。彼女は10代の頃、プエルトリコ独立派が平和裏の抗議活動中に虐殺されるのを見て以来、独立派の思想に傾いていた。その思いは、生活のために移住したニューヨークでのプエルトリコ人への差別、彼らの貧困を見てさらに強くなる。ペドロ・アルビス・カンポス率いる独立派の国民党党員となっていた彼女は、襲撃を実行に移す。

当日決行を躊躇する仲間に対して彼女は「それなら私一人でやる」と言い放った。彼女の気迫に気圧された残りの3名は、彼女に従って議事堂に向かう。警備員は彼らがカメラを持ち込まないように検査したが、銃には目が行かなかった。下院の議場の上部にある傍聴席に陣取った一行は、レブロンの「自由国プエルトリコ永遠なれ!」という叫びを合図に自動拳銃を乱射した。計30発の銃弾が撃ち込まれ、議場で打ち合わせをしていた5名の下院議員が銃弾を受ける。内1名は胸に被弾して重傷を負った。4名のテロリストの内3名はその場で、1名は逃走中に取り押さえられた。裁判の末、彼らは56年の懲役刑を受ける。25年後、カーター政権は、一説にはキューバの米人捕虜との交換で、3名の刑期を減刑(1名はその直前に末期がんを理由に釈放)し、彼らはプエルトリコに帰ることとなる。母国では支持者たちが彼らをヒーローとして迎えた。レブロンはその後結婚し、2010年90歳で天寿を全うした。

記憶から消された銃撃事件

現役の議員5名が議事堂内で銃弾を浴びる。このショッキングな事件は程なくして人々の記憶から消えることとなる。銃撃された議員の何れも命を落とすことはなかった。さらに当時のアメリカは冷戦の只中だった。人々は共産主義との闘いに忙しく、議会襲撃に構っている暇がなかった。

冷静に考えれば、アメリカから独立を目指す武装集団が議事堂に入り込んで議員を銃撃したのだから、彼らのやったことはテロ以外の何物でもないだろう。2001年の同時多発テロ以降急激に厳しくなったセキュリティーのお陰で、今日こんな襲撃の実行は極めて困難だろうし、万が一起きたら大変な騒ぎとなるはずだ。だが、レブロンは自らがテロリストと称されることをかたくなに拒んだ。彼女は言う。「世界で原子爆弾を使ったたった一つの国はどこですか?私のことをテロリスト呼ばわりする国です。テロリストは私じゃない。アメリカです。そのテロリストに私は戦いを挑んだだけです。何も恥じるところはありません」

その原子爆弾を投下された国の国民の耳には、彼女の主張は非常に新鮮である。