ポトマック河畔より#27 | ジョン・ブラウンと 彼が生きた合衆国分裂の時代

これは、丸紅グループ誌『M-SPIRIT』(2019年1月発行)のコラムとして2018年11月に執筆されたものです。

丸紅米国会社ワシントン事務所長 峰雄 洋一

南部の連邦離脱、そして南北戦争の引き金を引いたジョン・ブラウンの反乱

ジョン・ブラウン

奴隷制廃止運動(abolitionism)は話し合いでは解決しないと断じて反乱を起こし、「19世紀で最も評価が困難(most controversial)なアメリカ人」と呼ばれるのが、今回取り上げるジョン・ブラウンである。

彼はもともと皮なめしや羊毛取引の事業主だったが、当時の奴隷制廃止運動に感化されてのめり込んでいく。1856年5月、彼に率いられた集団がカンザス州東部で奴隷制支持派5名を殺害する事件を起こす。さらに8月には同地域で奴隷制支持派と衝突。双方に死者が出る事件となった。この二つの事件により、彼は奴隷制廃止運動家として一目置かれる存在になる。

ブラウンは南北戦争が始まる2年前の1859年10月、支持者からの援助で軍備を整えた上で、21名の同志と共に、ワシントンDCの北西50マイルのハーパーズ・フェリーの街を襲撃する。通信網を遮断し、その後街に到着した列車を襲ったが、それが事件が早く政府に伝わる原因となった。襲撃初日には武器庫を押さえることに成功したが、その頃には襲撃を受けた街の住民がおのおのの武器でブラウン一派に反撃を始めた。ブラウンは自分の反乱に促されて多くの奴隷が共に決起すると考えていた(そのために武器庫を襲って大量の武器を確保した)が、このもくろみははずれ、奴隷の誰一人としてこの反乱に加わる者はいなかった。追い込まれた彼らは、小さな消防署の建物に籠城。翌日には通報を受けた海兵隊に建物を包囲されるも、ブラウンはそれでも降伏を拒み、撃ち合いで彼の息子2人を含む味方の多くに死傷者が出る中、彼自身も負傷して捕縛された。同年12月2日、バージニア州に対する反逆罪を問われたジョン・ブラウンは「この国のけがれは血をもってしかあがない得ない」と書き残して処刑台の露と消えた。

やり方が意に沿わなければ、法の無効化や連邦脱退で対抗する州政府

かつてジョン・ブラウンが反乱を起こしたハーパーズ・フェリー

ここでジョン・ブラウンが活発に運動を繰り広げた1850年代をハイライトしてみたい。まずブラウンを武力闘争に向かわせる一つのきっかけとなった逃亡奴隷法(Fugitive Slave Act)が1850年に成立している。これは奴隷州から自由州に逃亡した奴隷を、証拠の有無にかかわらず連れ戻すことを各州に義務付ける内容の連邦法だった。しかし自由州の幾つか(バーモント州・ウィスコンシン州など)は同法の執行を阻むような州法を成立させることで、逃亡奴隷法に抵抗した。こうした自由州による連邦法の無効化(Nullification)が依拠していたものの一つに、合衆国憲法の修正第10条が存在する。これは、憲法で委任されていない権限には連邦政府は介入できず、州・人民に留保されるという内容である。このような建国以来の連邦と州との関係の複雑さが奴隷制廃止の問題で表面化し、奴隷州と自由州との間の緊張感を高める結果となった。そうした中で起きたジョン・ブラウンの反乱と彼の処刑が奴隷州・自由州双方をさらに刺激したことは言をまたない。事件翌年の1860年、リンカーンが第16代大統領に選出されると、奴隷州は次々に連邦脱退(Secession)を開始、これが翌年の南北戦争開戦につながっていく。この連邦離脱については憲法違反だとする見解が主流だが、これを合憲とする説もある。南北戦争では離脱を試みた南部連邦(Confederate States of America)側が破れたとはいえ、それだけをもって違憲とするのは当たらないだろう。事実21世紀に入っても連邦離脱を口にする州は存在する。また、「連邦法の無効化」や「連邦離脱」という形は採らないものの、連邦と州との不合意や利害の不一致は連綿と今に続く問題である。特にトランプ政権の誕生以降、州が連邦政府を訴訟するケースは急増している。

これは19世紀で終わった問題ではない

リンカーンからは「思い込みに目がくらんだ破壊分子=misguided fanatic」と非難され、アメリカ人の間でも「知る人ぞ知る」ジョン・ブラウンであるが、彼の死を称えた歌である「ジョン・ブラウンの屍=John Brown's Body」は日本でなじみのある「ゴンベさんの赤ちゃん」の起源に当たる。この歌は北軍の軍歌として取り入れられたが、その後、学校唱歌用にJohn Brown’s Babyという別バージョンが作られ、これが日本に伝わったものと思われる(元歌は「ジョン・ブラウンの赤ちゃんが風邪を引いたので胸にしょう脳油を塗ってあげた」という内容)。

19世紀、彼が流血をもってしか解決できないと信じた奴隷制の問題を一つのきっかけに、アメリカは南北戦争という内戦にまで突入したわけだが、その裏側にあるアメリカの多様性や州と連邦との関係の複雑さは150年前の歴史の話ではなく、今でもこの国のダイナミクスと難しさの両方を形づくっているように感じる。