丸紅アート・着物コレクション絵画コレクション -海外-

「美しきシモネッタの肖像」
「美しきシモネッタの肖像」サンドロ・ボッティチェリ(1445年~1510年)

1480年~1485年 テンペラ 板 65×44cm

サンドロ・ボッティチェリは本名をアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペピといい、1444年または1445年にフィレンツェで生まれ、1510年同地で没しました。幼年時代については記録が少なくよく知られていませんが、13歳で金細工の修業に出されたのち、当時フィレンツェで人気のあった画家フィリッポ・リッピの工房に入りました。師リッピの画風を継承するとともに、ヴェロッキオやポッライウォーロなどの影響を受けましたが、やがて流麗な線を巧みに駆使した独自の様式を確立しました。

1470年に最初の注文を受けて以来名声が高まり、1473年末にはピサの大聖堂のフレスコ画を描くように要請されました。1478年のパッツィ家の陰謀を契機にメディチ家の庇護を受けてからは評判が一段と高まり、1470年代後半から1480年代にかけて、「春」や「ヴィーナスの誕生」などの傑作を描きました。

しかし、1490年代以降はサヴォナローラの影響を強く受けて、中世的、宗教的色彩の濃い作品を多く残しています。
死後、彼の名は美術史上からほとんど忘れかけられましたが、19世紀にラファエル前派が価値を再発見し、レオナルドやミケランジェロに比肩し得るルネサンスの巨匠として認識されるようになりました。
この作品のモデルと伝えられるシモネッタ・ヴェスプッチは1475年にロレンツォ・ディ・メディチ主催の「大騎馬試合」で美の女王に選ばれた絶世の美女で、同試合の勝利者となったロレンツォの弟ジュリアーノの恋人と噂されましたが、胸の病で1476年に22歳の若さで夭折しました。彼女の美しさと、ジュリアーノとの恋物語はポリツィアーノやボッティチェリやピエロ・ディ・コシモなど多くの詩人や画家の想像力を刺激しました。ボッティチェリの傑作「春」や「ヴィーナスの誕生」も彼女をモデルにしているといわれています。

「田園の求愛」(乳しぼりの娘に求愛する農夫)
「田園の求愛」(乳しぼりの娘に求愛する農夫)トーマス・ゲインズバラ(1727年~1788年)

1755年~1759年頃 油彩 キャンバス 85×112cm

ゲインズバラはレイノルズと並んで18世紀イギリスを代表する画家です。ロイヤル・アカデミーの創設会員の一人であり、青と緑を基調とする肖像画家としてよく知られています。しかし、彼自身が好んだのは風景画でした。
枯れた木を引立て役にした牧歌的な求愛シーンはブーシェやフラゴナールなどフランス・ロココ趣味の主題の一つでしたが、ゲインズバラはイギリスの風景画にそれを取り入れました。

絵をよく見ると、乳搾りの娘は農夫の語りかけを聞くともなく聞かずともなく顔を正面に向け、不安定に足を組んで立っています。携帯椅子を右手に持っているところをみると、その場から逃れたがっているようにも見えます。カナダのモントリオール美術館の作品も同じ構図です。一方、ロンドンの北、ウォバーン・アベイにあるベドフォード家所蔵の同主題の作品では、腰掛けた娘が農夫から恥ずかしそうに顔をそむけています。

前景にはロバと倒木、中景には川と橋と小屋があり、遠い丘の上には風車が見えます。そして左手奥の木立の向こうにはゲインズバラが当時滞在していたサフォーク州イプスウィッチの町の塔が絵画的に配されています。

「ヴェネツィア大運河-総督邸とサンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂を望む」
「ヴェネツィア大運河-総督邸とサンタ・マリア・
デラ・サルーテ聖堂を望む」
ウィリアム・ジェイムズ・ミュラー(1812年~1845年)

1837年 油彩 キャンバス 133×228cm

ウィリアム・ミューラーは英国の貿易港ブリストルで生まれました。父は普仏戦争を逃れて英国に避難したプロシャの科学者でした。彼は10歳の時から父の学術論文用に貝殻などの挿絵を描き、正確な写実力を身につけ、画家を目指すようになります。

彼は心臓を患っていましたが、各地へ頻繁に写生旅行に出かけました。特に1934年から35年にかけての大陸旅行は、ベルギー、ドイツ、スイス、イタリアを回ってブリストルに戻るまで、7カ月間の大旅行となりました。この絵の題材となったヴェニスには2カ月間も滞在しています。運河に接し、総督邸を対岸に見る小ホテルに滞在し、毎日のようにゴンドラを借り切って船上から精力的にスケッチして回りました。

帰国後、スケッチをもとに多くの油彩画を驚異的なスピードで制作しましたが、どんな大作でも数日で仕上げたといいます。ヴェニス運河は特にお気に入りの題材でした。抜けるような青空から建物や運河に降り注ぐ日の光が、無限に明るく清澄な気分を醸し出しています。

「ハイデルベルク」
「ハイデルベルク」ジェイムズ・ウェッブ(c. 1825年~1895年)

1877年 油彩 キャンバス 61×91cm

ジェイムズ・ウェッブについて詳しいことはあまり伝えられていません。生まれた年も1825年頃とされています。彼は1850年から1888年までロンドンのロイヤル・アカデミーやブリティッシュ・インスティテュートに出品していましたので、絵画愛好家の間ではすでに知られていました。彼の作品はヴィクトリア&アルバート美術館やテート・ギャラリーにも収蔵されています。

彼はとくに決まった流派に属した画家ではありませんが、自然、とくにコンスタンティノープルやモン・サン・ミシェルといった異国の自然を、繊細な筆致と柔らかな外光でつつみながら、自分と風景との主観的なかかわり合いを意識しながら、微妙に描き出しました。
ウェッブが生きた時代は、産業革命が起こりイギリス史上未曾有の経済的繁栄を経験したヴィクトリア女王の治世でした。
しかし、その繁栄の裏で自然破壊と人心の荒廃が進みました。そうした状況の中で、失われた自然への郷愁、異国の自然への憧れが無意識のうちに芽生えるようになりました。絵画の世界でも懐古趣味や東方世界へのエキゾティズムが流行となりました。
写真等でみる現在のハイデルベルグ城より、百年以上前に描かれたこの絵のハイデルベルグ城の方が時代が経っているように見えるのは、そのような時代趣味が反映しているためかもしれません。

「夜明け」 (または「羽毛のような雲」、あるいは「湖と空」)
「夜明け」 (または「羽毛のような雲」、あるいは「湖と空」)エドワード・コリー・バ-ン=ジョーンズ(1833年~1898年)

パステル紙(キャンバスで裏打ち) 90×213cm 丸紅所蔵

バーン=ジョーンズは1833年にバーミンガムで生まれ、19世紀後半に活躍したイギリスの画家です。初めオックスフォードのエクスター・カレッジで神学を学びましたが、20歳を過ぎた頃、ラファエル前派の擁護者ラスキンの本を読んで画家になろうと決心します。1856年にラファエル前派の中心人物であるダンテ・ガブリエル・ロセッティと知り合って絵の手ほどきを受け、その影響の強い、内面的で神秘的な作品を多く描きました。ラファエル前派の運動は明治期の日本の文学や美術にも幅広い影響を与えています。

この作品には4つの題名が伝わっています。和名は「夜明け」、イギリス名は「湖と空」または「農園」、フランス名は「羽毛のような雲」となっています。

「農園」(“The Grange”)という題名は絵の裏の木枠に貼られたラベルに手書きで書かれています。ということは「農園」というのがもともとのタイトルであった可能性があります。しかし、この絵にはどこにも農園らしいものは描かれていません。そこで当惑した業者や展覧会主催者らが、それぞれの印象からいろいろな題名を付けたのではないかと思われます。

想像するに、この作品はもともと上・中・下の縦三連の非常に大きな絵の「上」の部分として描かれ、他にこれよりも大きい「中」の部分とこの絵と同じ大きさの「下」の部分があり、中の部分に恐らく神話的女性を配した農園が描かれていた、あるいは描かれる予定であったのではないかと思われます。パステルで描かれていますので、この絵は習作であり、いずれ油彩画として完成する予定であったかもしれません。もし完成していれば、その三連の絵は注文主の邸宅の大きな壁にはめ込まれていた可能性があります。

しかしながら、この絵を単体として見た場合には、「羽毛のような雲」という題名が、全体の印象からいって、最もふさわしいように思えます。

ロセッティの友人が書いた神秘小説の中に、「金色の羽毛のような形の、あるいは手のような形の雲を見た人には幸運がおとずれる」という迷信を信じる少女が登場します。この絵は、まさにこれから太陽が昇り、その光線が「羽毛のような雲」を金色にそめるかもしれないという希望に満ちた象徴的な瞬間を描写したものと見えないでしょうか。

「ヴィル・ダヴレーのあずまや」
「ヴィル・ダヴレーのあずまや」ジャン=バティスト=カミーユ・コロー(1796年~1875年)

1847年 油彩 キャンパス 150×110cm

作曲家ドビュッシーでも有名なヴィル・ダヴレーは、パリの中心から西に12km、車で20分足らずのところにある小さな町です。大小二つの池の周りを森となだらかな丘が囲む風光明美な地です。コローの父が池のほとりに家を購入したのは1817年のことでした。コローの部屋は2階の4畳半ほどの小部屋で、池に面して二つの窓がありました。彼は窓辺にひじをつき、朝夕の光を映した水面や木々を眺めて何時間も過ごしたということです。庭には泉水と小川が流れ、川を挟んで小高い土手の上にはあずまやがあります。今もその家は残っていて、人が住んでいます。

コローは同地の自然を題材に160点もの油彩画を残しました。特にこの絵はコローの思いの込もった作品です。
1847年の夏、父の看病でヴィル・ダヴレーに滞在中に描きました。手前で新聞を読む父、橋の手すりにもたれて何やら会話する母と姉、写生から戻ったコローを小道で迎える姉婿セヌゴン氏。家族が愛情込めて描かれています。コローはこれを母の誕生日にプレゼントしました。

「積雪の森」
「積雪の森」ギュスターヴ・クールベ(1819年~1877年)

1862年頃 油彩 キャンバス 63×53cm

ギュスターヴ・クールベはジュラ山麓にあるフランスのフランシュ・コンテ地方オルナンという村に生まれました。1840年、法律を学びにパリに出ますが、早々に法律家になるのを諦め、画家に転向しました。
クールベがパリに出て画家を志した頃、フランス画壇は、古典主義のアングルとロマン主義のドラクロワという巨匠によって二分されていました。生来挑戦的な性格であったクールベは、そのどちらにもくみすることなく、現実を理想化したり、美化したりしないで、醜いものは醜いなりに、真実をそのまま描きあらわそうとするリアリズムの姿勢を貫き、後継者たちに大きな影響を与えました。

「女神を描くことをお望みなら、まず女神を見せてもらおうではないか。…風景を描くにしても、その風景をよく知らなければならない。私は自分の故郷をよく知っているのでそこを描くのだ。私の絵の中には現実そのままのルー川やリゾン川があり、オルナンやピュイ・ノワールの岩がある。そこに行ってみるがいい。」

しかし、晩年になって、自分の行った政治的・芸術的言動に対する周囲の人々の誤解や嘲笑に嫌気のさしたクールベは、以前にもまして自然の懐に心の安らぎを求めるようになり、この絵のように子供たちやハイカーの目にしかとまらないような森の奥とか、海とか、ひと気の少ない風景画を多く描くようになりました。

彼はフォンテヌブローをしばしば訪れ、バルビゾンの画家たちと交遊を続けたため、バルビゾンの画家の一人に数えられています。

「小川のほとりの木立ち」
「小川のほとりの木立ち」アルベール・ルブール(1849年~1928年)

1890年頃 油彩 キャンバス 41×66cm

アルベール・ルブールは1849年にパリ北西のユール県モンフォール・シュル・リールに生れました。彼は早い時期からルーアンの美術学校やパリのJ. P. ローランのアトリエに通って絵を習いました。しかし、彼の芸術に磨きがかかったのは、その後アルジェに行き、デッサンの教師となってからのことでした。

彼は1877年にフランスに帰国すると、初めオーベルニュに、次いでルーアンに居住して絵を制作しました。その間、パリでは印象派の画家たちとともに展覧会を催し、人気を博しました。1900年の万博に出展して銀賞を受賞し、1903年にはレジオン・ドヌール勲章も授与されました。しかし、1921年、突然脳充血に襲われて身体が麻痺し、1929年に亡くなるまで再び絵筆をとることはありませんでした。

彼の作品はジュ・ド・ポーム、ルーアン、ブカレストなど、フランスをはじめとする世界各地の美術館に収蔵されています。
当社所蔵のこの作品は1942年のポール・ブランスール画廊における「ルブール展」にNo.9として出品されたことがあります。

美術評論家ギュスターブ・ジョフロワは彼の芸術を評して1918年にこう記しています。
「彼の作品には強烈な色彩とか光とか花火のような激しさはない。しかし、彼の絵を見ていると、限りなく優しく、心地よく澄明で、しかも調和のとれた世界-----森羅万象が、選りすぐられたこの世の優美さに酔いつつ、魅力的でメランコリックな夢によって分解されてしまうような、そうした空気が漂っている世界----に誘われる。」

「サン・ジュアンの断崖」
「サン・ジュアンの断崖」ギュスターヴ・ロワゾー(1865年~1935年)

1907年 油彩 キャンバス 60×73cm

ギュスターヴ・ロワゾーは、1865年10月3日にパリ市で生まれました。1年の兵役の後、彼は父の指示に従い、一時家業である装飾家としての仕事に就きました。両親は彼が家業を継ぐものとばかり思っていましたが、祖母の死に遭い、チフスを患ってから、興味のあった画家の道を志します。そしてモンマルトルに移り住んで、多くの画家と交友を始めました。
1890年に、ロワゾーはポン・タヴァンを訪れました。その時ゴーギャンはいませんでしたが、モーフラやモレなどゴーギャンを中心に同地に集まった画家たちがおり、彼らを通じてゴーギャンの影響を間接的に受けました。

1894年、印象派をプロモートした大画商デュラン・リュエルが彼の作品を扱い始めます。ゴーギャンが第1回タヒチ旅行から戻ったのもそのころで、2回目の旅へ出かけるまでの5カ月間、ロワゾーはポン・タヴァンで直接ゴーギャンの薫陶を受けました。

1895年にモレ・シュル・ロアンに移住し、その地の川や丘を描くようになりますが、モネ同様、彼も旅行を好み、ノルマンディー海岸、フェカン、エトルタ、サン・ジュアン、ル・アーヴル、マルセイユなどフランス各地の風景を描きました。また1905年から1910年にかけてはルーアン付近の風景シリーズを描きました。晩年はパリに戻り、ケー・ダンジューのアパルトマンに住んで、以後パリ市街の風景を描きました。

作風は、一見モネと見まごうばかりでありますが、モネが光の効果で移り変わる自然を純視覚的に描写したのに対し、ロワゾーはどちらかというと自然を主観的、情緒的、情感的にとらえたのが特徴です。そういう意味で彼を最も感動させたのは、南仏よりもノルマンディーの太陽、昼間よりも朝夕の太陽でした。ぎらぎらとした強烈な存在感はありませんが、その光が大気にあまねく染み渡って生命を包み込むような優しい太陽です。さらに、トルコ石のような青い空、美しくバラ色に染まる綿のような雲、軽やかな空気、水蒸気に宿る光、そしてそれらを表現する繊細で魅力的な色使い、こういったものすべてが彼の絵の特徴となっています。明暗のコントラストの少ない、曇り日や霧に煙る彼の風景画は、モネやシスレーなどの印象派の絵に比べ、より美文調の仕上がりとなっています。

「エスタックのオリーブ畑」
「エスタックのオリーブ畑」ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年~1919年)

1882年 油彩 キャンバス 37×66cm

ルノワールは中部フランスの陶磁器で有名なリモージュで生まれました。
13歳から製陶工場の絵付師として働きます。20歳を過ぎて国立美術学校のグレールのアトリエに入り、モネ、バジル、シスレーらと知り合います。初期にはドラクロワやクールベの影響を受けた作品を制作しました。印象主義の創始者の一人として第1回から第3回の印象派展に「桟敷席」(1874)や「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876)などの力作を出品。翌年にはサロンに「シャルパンティエ夫人とその子供たち」などを送り、成功を収めました。晩年はリューマチを患って、絵筆を持つこともままならない状態になりますが、療養を兼ねて移り住んだ南仏のカーニュの自然は彼の作品に一層豊かな色彩をもたらしました。

ルノワールは1881年から翌年にかけてアルジェリアとイタリアを旅行し、その帰路、マルセイユ近くのエスタック村に立ち寄りました。1882年1月末のことです。彼は友人宛の手紙の中で、エスタックについて「ここはまさにこの世で一番美しい場所だ」と書き送ったほどです。日の光が海原や木の葉や草むらに心地よく降り注ぎ、あふれた光が大気中に飛び交っています。冬なのにもう春のような陽気でした。
エスタックで彼は尊敬するセザンヌに会うこともできました。海原や草むらに見られる平行な斜めの筆致はセザンヌの描法を反映したものです。
ルノワールは晩年、南仏のカーニュに移り住みますが、その自宅コレット荘のバラ園に「愛の神殿」をつくろうとし、りんごを手にした「勝利のヴィーナス」の彫像を制作しました。ギリシャでは、りんごは語源的にみて「果実」を意味し、ヴィーナスが手にしたのは実はかんきつ類であったとも言われています。

ルノワールにとって「世界で一番美しい」このエスタックのオリーブ畑は、海から降り立ったヴィーナスの園と映っていたかもしれません。

「神殿の舞」
「神殿の舞」ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年~1919年)

1895年 油彩 キャンバス 94×36cm

「イオカステ」というのがこの作品の原題です。1895年に、ルノワールはオイディプス王の神話を題材にした作品を何点か描きました。ソポクレスの悲劇で名高いオイディプス王は、自分でそれと知らずに、父テーバイ王ライオスを殺害し、その妃つまり母イオカステを妻としてしまいます。この絵は、その恐ろしい事実を知らされた王妃イオカステの驚愕の様子を描こうとしたものと思われます。

しかし、生涯人生の悦びを描いたルノワールだけに、こうした悲劇をテーマにしながら、この絵はそれほど深刻さを感じさせません。そのせいか、この絵を輸入した際のインヴォイス上では「神殿の舞」という題名にされていました。知らずに絵を見れば、そのような題名にまったく違和感はありません。

この作品は元来オイディプス王を描いた同サイズの作品と対をなすものと思われます。その対と思われる絵は、ルノワールの生前、カーニュのアトリエの壁に掛けられていました。

「青い花瓶のキンセンカ」
「青い花瓶のキンセンカ」オディロン・ルドン(1840年~1916年)

1910年頃 パステル 紙 44×35cm

オディロン・ルドンはフランスのボルドーに生まれました。1857年頃、植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、生物の神秘を知り、哲学や文学について啓発されます。1863年、エコール・デ・ボザールのジャン・レオン・ジェロームのアトリエに入りますが、1865年に退校してしまいます。その後、銅版画家ロドルフ・ブレダンに師事し、幻想的なエッチングや素描の制作を始めます。

1878年にファンタン・ラトゥールに石版画の技法を学び、翌年最初の石版画集「夢の中で」を刊行しました。マラルメ、ボードレールなど象徴主義の詩人、文学者と親交を結び、1890年までに石版画集『聖アントワーヌの誘惑』(1888、1889、1896)、銅版画集『悪の華』(1890)などの挿し絵を制作するなど、画家としての前半生を荒野や夢魔などをテーマにした黒白の木炭画や版画の制作に専念しました。

ところが1890年以降、彼の作品は表面上大変貌を遂げます。それまでの黒と闇の時代は終わり、華麗で幻想的な色彩の時代が始まります。当社所蔵のこの作品はその円熟期のものです。
しかし、ここでの主役はいつもの華やかな花ではなく青い花瓶です。背景の地色に溶け入りそうなキンセンカの地味な色合いに比べて、花瓶の色の何と鮮やかで妖艶なことでしょう。まるで「色彩が生命そのもの」のようにみえます。影がなく、曖昧模糊とした虚空に浮かぶこの燐光を放つ青い花瓶は、ルドン芸術の重要なテーマである「出現」を連想させるものがあります。

「庭園の中の裸婦」
「庭園の中の裸婦」ジャン=ジャック・エンネル(1829年~1905年)

油彩 キャンバス 31×24cm

エンネルは1829年にアルザスの南にあるベルンヴィラーの農家で6人兄弟の末っ子として生まれました。
彼の画暦は大きく3つの時期に分けられます。

第1期は1845年からローマ賞を受賞した1858年までの若年期。地元やストラスブールで学び、1846年以降はパリで修業しました。この時期は家族や身近な人の肖像画を多く描いています。

第2期は1859年から1864年までのイタリア時代。ローマのアカデミー・ド・フランスに籍を置いて、風景画を描いたり、ジォットやコレッジオなど、イタリアの巨匠作品の模写をしたりしました。

第3期は1865年から1905年までの最盛期。パリに居住してサロンに毎年数点ずつ出品し、官展画家としての名声をほしいままにしました。当社所蔵のこの作品も第3期のものと思われます。1873年にレジオン・ドヌール五等勲章を受章したのを皮切りに、次々に画家としての名声を高めていき、1903年にはレジオン・ドヌール二等勲章の栄誉に浴しました。

第3期には神話や宗教に題材をとった絵が多く描かれています。特に、彼が愛読したウェルギリウスやオウィディウスなどのローマ詩に着想を得た牧歌的なテーマが多くなっています。
しかし、1870~71年の普仏戦争で故郷のアルザスがプロシャ領になってからの作品には哀愁が漂うようになり、時には故郷の風景が裸婦の背景にノスタルジックに描かれました。そのため、彼は象徴派の画家とみなされることがあります。結局、彼はアルザスがフランスに戻る日を見ることなく、1905年にパリで亡くなりました。

「ルーアン大聖堂」
「ルーアン大聖堂」ピエール・デュモン(1884年~1936年)

油彩 キャンバス 65×81cm 丸紅所蔵

パリの北西にルーアンという町があります。ゴチック様式の教会と絵のように美しい街並みにより「ゴチックの町」と呼ばれ、過去芸術家たちの制作意欲を絶えずかき立ててきました。

そのルーアンに、1895年から1940年にかけて、印象派のヴィジョンを抱きながら、ルーアン大聖堂やセーヌの美しい谷間を描く風景画家のグループが存在しました。彼らはエコール・ド・ルーアンと呼ばれ、そこに定住し、故郷の美しい風景を描き続けました。

ピエール・デュモンもその仲間の一人でした。彼はルーアンのブルジョアの出身でしたが、画家を志すに際して両親の理解や援助を得られなかったため、はじめパリの貧乏絵描きたちのたまり場「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)で絵の勉強を始めました。しかし、すぐに資金が底をつき、故郷に戻ってエコール・ド・ルーアンに加わったのです。
1909年にルーアンのルグリップ画廊で初個展を開き、同じ年に「ノルマンディー現代画家協会」の前身であるグループ「XXX」を創立して、ジャック・ヴィヨンやマルセル・デュシャンなどの前衛画家や詩人、作家たちとの接触をもち、ますますフォーヴィスムやキュービスムに傾斜していきました。

1912年にはアポリネールの援助を受けて、ヴィヨンやピカビアらとともにパリで「セクション・ドール」誌を創刊し、同名の展覧会を開催、その後もサロン・デ・ザンデパンダンやサロン・ドートンヌに出品を続けるなど精力的な活動をしました。

デュモンの画風は同グループの影響を多少は受けていますが、むしろフォーヴ(野獣派)に近いものがあり、この絵のように力強い大胆な黒を使うなど、光と影のコントラストを強烈に浮き立たせているのが特徴です。

掲載しているのは所蔵コレクションの一部です。