奴隷制廃止運動(abolitionism)は話し合いでは解決しないと断じて反乱を起こし、「19世紀で最も評価が困難(most controversial)なアメリカ人」と呼ばれるのが、今回取り上げるジョン・ブラウンである。
彼はもともと皮なめしや羊毛取引の事業主だったが、当時の奴隷制廃止運動に感化されてのめり込んでいく。1856年5月、彼に率いられた集団がカンザス州東部で奴隷制支持派5名を殺害する事件を起こす。さらに8月には同地域で奴隷制支持派と衝突。双方に死者が出る事件となった。この二つの事件により、彼は奴隷制廃止運動家として一目置かれる存在になる。
ブラウンは南北戦争が始まる2年前の1859年10月、支持者からの援助で軍備を整えた上で、21名の同志と共に、ワシントンDCの北西50マイルのハーパーズ・フェリーの街を襲撃する。通信網を遮断し、その後街に到着した列車を襲ったが、それが事件が早く政府に伝わる原因となった。襲撃初日には武器庫を押さえることに成功したが、その頃には襲撃を受けた街の住民がおのおのの武器でブラウン一派に反撃を始めた。ブラウンは自分の反乱に促されて多くの奴隷が共に決起すると考えていた(そのために武器庫を襲って大量の武器を確保した)が、このもくろみははずれ、奴隷の誰一人としてこの反乱に加わる者はいなかった。追い込まれた彼らは、小さな消防署の建物に籠城。翌日には通報を受けた海兵隊に建物を包囲されるも、ブラウンはそれでも降伏を拒み、撃ち合いで彼の息子2人を含む味方の多くに死傷者が出る中、彼自身も負傷して捕縛された。同年12月2日、バージニア州に対する反逆罪を問われたジョン・ブラウンは「この国のけがれは血をもってしかあがない得ない」と書き残して処刑台の露と消えた。