ポトマック河畔より#23 | トランプ大統領とアメリカの南北の歴史

今回より峰尾洋一 丸紅米国会社ワシントン事務所長(2017年10月に就任)の連載がスタート!

これは、丸紅グループ誌『M‐SPIRIT』(2018年1月発行)のコラムとして2017年12月に執筆されたものです。

丸紅米国会社ワシントン事務所長 峰尾 洋一

シャーロッツビルでの事件

昨年8月、ワシントンDCに隣接するバージニア州のシャーロッツビルで、南軍司令官リー将軍の銅像撤去を巡り撤去の動きを阻止しようとする白人至上主義者のグループと反対派が衝突。反対派の女性1名が死亡し多数の負傷者が出る事件が発生した。事件から数日後の会見で、トランプ大統領が白人至上主義者のみならず反対派も非難する発言をしたことでさまざまな議論を呼んだ。

この会見で大統領が「(南部の)歴史と文化」と呼んだこれらの銅像の多くは、実は南北戦争後に建てられている。特に黒人の分離(segregation)を図ったジム・クロウ法制定時の1910~20年代、このジム・クロウ法を廃止に追い込んだ公民権運動の時代である50~60年代に集中している。これらの事実から、銅像は南部の文化を象徴するものではなく、白人至上主義を正当化し黒人を抑圧する目的に建てられたとする説が多く存在する。一方で、南北戦争の敗戦の事実を受け入れられない南部各州が主張した「南部の大義(南軍は州の独立を守るという大義の下に勇敢に戦ったが、北軍の物量・兵力に衆寡敵せず敗れた等)」の考え方が根底にあったという説も存在し、その観点から南部の歴史の象徴である像を撤去すべきではないと主張する声も一定層存在する。

銅像の撤去の動きは2015年にサウスカロライナ州で起きた白人至上主義者の青年による銃乱射事件(9名の黒人が死亡)を契機に広がっている。さらにこのシャーロッツビルの事件もその動きに拍車を掛けることとなった。

先日の事件から3カ月後のシャーロッツビルを訪問した。銅像のある小さな公園は閑静な住宅街にあり、事件が起きたことが想像できない。8月の事件以降、市の判断で銅像には黒いビニールシートがかぶせられている。肝心の銅像撤去は裁判所の差し止め命令によって止まったままである。

リー家とトランプ家

銅像の主であるリー将軍は由緒正しい家系の出身である。リー家最初の入植者のリチャード・リーは17世紀前半に英国から移住、亡くなる時点でバージニア州有数の資産家であった。その後リー家は第12代のテイラー米大統領をはじめ名士を輩出しており、リー将軍の父ヘンリー・リーも連邦下院議員やバージニア州知事を歴任した。またリー将軍の夫人マリー・カスティスはアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの曾孫に当たる。

夫人が相続し夫妻が住んだ家(アーリントンハウス)がワシントンDC近郊のアーリントン墓地の中に立っている。もちろん最初から墓の中に家を建てたわけではない。戦争が始まり家族が避難した直後に北軍が広大な敷地と家を占拠、後に税金の未納を理由に没収した上、将来リー家が戻れなくするために庭園を整地して戦没者の墓にしたのである。戦後変わり果てた邸宅を一目見たマリー・カスティスはショックのあまり言葉も無く立ち去ったと伝えられている。

一方、冒頭の会見の中でリー将軍の銅像を南部の歴史としてかばったトランプ大統領の祖父フレデリック・トランプが17歳でドイツから米国に移住して来たのは、南北戦争後、すでに20年を経過した1885年のことであった。彼はその後鉱山ブームに沸く米国北西部ワシントン州でレストランなどを経営して大成功し、その資金を元手にニューヨークで不動産ビジネスを始める。フレデリックの事業を夫人と長男のフレッド・トランプが継承・拡大させ、今のトランプ家の繁栄を築いた。そのフレッドの次男ドナルドがトランプ家の最初の移住から3代目にして大統領の座まで上り詰めるのである。

150年後のアーリントンハウス

先日18年ぶりにアーリントンハウスを訪問した。アーリントン墓地には朝早い時間から人が集まっているのだが、アーリントンハウスの周りは心なしか人が少ない。建物も修復中で中は雑然としていた。最初にアメリカに来たばかりの頃、アーリントン墓地に行くと言った私に向かってバージニアに住むアメリカ人の友人が真剣な顔で言った「北軍は嫌がらせでリー将軍の邸宅を墓で囲んだ」という言葉が18年の時を経てよみがえってきた。南北戦争が終わった1865年から既に150年以上が経過している。それでもアメリカから南北戦争によってもたらされた南北の溝が完全に消えるのにはもう少し時間が掛かるのかもしれない。