コレクションについて
コレクションの成り立ち
丸紅コレクションは、染織品(着物、能装束、裂など)、染織図案、そして絵画の3本柱から構成されます。
丸紅は1858年の創業以来、第二次世界大戦まで繊維を中心とした卸販売業者として発展してきました。また、戦後は繊維のほか、金属や機械、化学品、エネルギー、食料、木材、紙、ゴム、金融、情報サービスなどさまざまな商品やサービスを扱う総合商社へと変容しました。
そうした業容拡大の過程で、絶えず付加価値創造の試みを続けてきましたが、美術品との関連でいえば、戦前の大正末期から昭和初期にかけて、丸紅の前身である丸紅商店が、着物の新しいデザインを模索するために2つの事業を実施しました。
まず、大正末期の1925年に、丸紅商店は「名品会」を組成し、新しい感覚の商品を創作する目的で、江戸期を中心とした古い時代の染織品の蒐集活動と研究を行いました。それらの染織品コレクション400点あまりが丸紅の所蔵品として受け継がれています。
1927年からは、丸紅商店は「あかね会」という染織図案研究会を主宰。画家、彫刻家、漆芸家、彫金家など多様なジャンルの芸術家延べ約70名に毎年オリジナルのデザインを発表してもらい、それらを基にした展覧会「染織逸品会」(後に「染織美術展覧会《美展》」と改称。現在も京都丸紅株式会社に受け継がれています。)を開催しました。それらの図案は合計約600点を数えます。
丸紅の絵画コレクションは近代日本絵画と西欧絵画から構成されています。近代日本絵画は、戦前の「あかね会」等を通じて画家との接点があったこともあり、画家本人や画商を通じて折に触れ蒐集されました。他方、丸紅は1969年から10年間、総合商社として初めて本格的に美術品の輸入販売事業を行い、ルネサンス期以降の古典絵画や印象派、エコ-ル・ド・パリの作品を数多く取り扱いました。西欧絵画のコレクションはそうした営業活動から作り上げられました。
染織品
【重要文化財】染分縮緬地襷菊青海波文様友禅染振袖
江戸時代18世紀
背裏に縫い付けられた裂の墨書から、享保15年(1730年)に19歳で亡くなった江戸の町名主の娘の菩提を弔うために奉納された振袖であることが分かる。着用者や制作時期の特定が難しい染織品において、着用者と制作年代の下限を定めることが出来る極めて貴重な作品である。
腰を境に上半身には三重襷風の模様、下半身には青海波風の菊を繋いだ模様を友禅染で表し、背面には桜の折枝を刺繍で表した伊達紋が付く。
腰の上下で模様を変える意匠構成、衣服の装飾を目的とした伊達紋、友禅染の細やかな色彩表現といった、当時好まれた流行の特徴をよく表わしている。
染織図案
山野草
岡田三郎助
1934年 墨画淡彩・紙 33x95cm
岡田三郎助は佐賀県出身。1887年曽山幸彦に師事した後、黒田清輝の天真道場に入門、白馬会の創立メンバーの一人となった。
1897年から5年間、西洋画で初の文部留学生として渡仏、黒田の師ラファエル・コランに師事した。1902年に帰国後、東京美術学校の教授に就任。1912年には藤島武二とともに本郷絵画研究所の設立に参加し、多くの後進を育てた。1937年に第1回文化勲章を受章。近代日本の官展系洋画を代表する画家であると同時に、染織品のコレクターとしても知られる。
美術史家・黒田鵬心は「京都の丸紅商店の催で美術家の新図案による染織品の会があった。その世話をしていた私は(岡田先生に)度々お願して出来たのは唯一回ではあったが、紙で着物の型を作り全部原寸で模様を描かれ頗る凝ったものが出来上がった。」と記している(大隅為三・辻永編『畫人岡田三郎助』 1942年、春鳥會、pp.189-190)。スミレやナズナ、オサバグサ、カルネア、イソツツジなど春から夏にかけて咲く山野草が精確に描かれたこの図案がその作品ではないかと、断定はできないものの、そう推量される。
磯つづれ 五
竹内栖鳳
1928年 着色・裂地 46x31cm
竹内栖鳳は京都出身。京都円山四条派の大家・幸野楳嶺の門下生で四天王の一人と言われた。明治から昭和にかけて活躍し、「東の大観、西の栖鳳」と並び称せられた日本画家。京都円山四条派の写生画を近代化した功績が評価されている。1937年に第1回文化勲章受章。
この「磯つづれ 五」と題する作品は、栖鳳にしては抽象的で異質な印象を与えるが、これは1913年の第7回文展出品作《絵になる最初》(京都市京セラ美術館蔵)に描かれた着物の柄に見られる、いわゆる「栖鳳絣」と呼ばれた図案の発展形と考えられる。複雑な色合いに加えて裂をコラージュするなど凝った技法を用い、近代的で味わい深い作品に仕立てている。
なお、丸紅創業者である初代伊藤忠兵衛は栖鳳と面識があり、自分の干支にちなんで栖鳳の作品《虎図》の掛け軸を所蔵していた形跡が写真に残っている。
国内絵画
彦根内湖
和田英作
1943年(皇紀2603年) 油絵・キャンバス 73×91cm
和田英作は鹿児島県出身。天真道場で黒田清輝と久米桂一郎に師事しつつ東京美術学校に学び、1897年同校を卒業。在学中の1896年に黒田清輝が創立した白馬会に入会する。1899年渡欧し、フランスで外光派のラファエル・コランに学ぶ。1903年帰国後東京美術学校の教授となり、後に同校校長も務めた。文展の中心作家として活躍し、1919年に帝国美術院会員となり、後に帝室技芸員、そして帝国美術院付属美術研究所長となる。彼の作品は、師である黒田やコランの影響を受け、典雅な情趣と紫系統の色使いに特徴がある。
本作は、文化勲章を受章した1943年に制作された。裏の木枠上に恐らく画家自身が「雲雀啼くころ」と墨書しているように、この絵は内湖の自然の中で感じられる早春の情感を見事に描写している。
朝陽の顔
山下新太郎
制作年不詳 油彩・板 37×46cm
山下新太郎は東京出身。東京美術学校で黒田清輝に師事し1904年卒業。翌年渡仏しラファエル・コランとフェルナン・コルモンに学ぶ。また、1910年の帰国前に尊敬するルノワ-ルから直接助言を受けて印象派の手法を学んだ。1914年二科会創立に参加。1931~32年再び滞仏。絵画技法に造詣が深く、滞仏中ポルトガル屏風や敦煌発掘古画を修復した功績で1932年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られた。1935年帝国美術院会員となる。1936年有島生馬、石井柏亭らと一水会を結成した。1955年文化功労者となる。
海を描いた絵は二度目の渡仏の際の往復の船上で描いているが、記録が残っていないため本作の制作年は特定できない。日の出の空と海を美しい印象派的色彩で描いた本作は、モネの有名な絵《印象、日の出》を想起させる。
西欧絵画
美しきシモネッタ
サンドロ・ボッティチェリ
15世紀後半 テンペラ・板 65×44cm
サンドロ・ボッティチェリは1444年または1445年にフィレンツェに生まれ、1510年同地で没した。1461~62年頃フィリッポ・リッピの工房に入り、その後アンドレア・デル・ヴェロッキオに師事して、両師の画風を継承するが、後年、メディチ家の庇護を受けつつ、流麗な線と華麗な色彩を駆使した独自の様式を確立した。
この作品のモデルと伝えられるシモネッタ・ヴェスプッチは1475年にロレンツォ・デ・メディチ主催の「大騎馬試合」で美の女王に選ばれた絶世の美女で、同試合の勝利者となったロレンツォの弟ジュリアーノの恋人と噂されたが、翌年、胸を患い22歳の若さで亡くなった。彼女の美しさとジュリアーノとの恋物語は多くの詩人や画家の想像力を刺激した。ボッティチェリの代表作《春》や《ヴィーナスの誕生》などにも彼女の面影がみられる。
神殿の舞
ピエール=オーギュスト・ルノワール
1895年 油彩・キャンバス 94×36cm
この絵の和名は丸紅の輸入時から《神殿の舞》となっているが、原題は《イオカステ》である。1895年にルノワールは古典を研究し、ソポクレスの悲劇で名高いオイディプス王を題材にした作品を多数描いた。オイディプス王は、それと知らずに彼の父テーバイ王ライオスを殺害し、その妃である彼の母イオカステを妻とする。この絵は恐ろしい事実を知ったイオカステの驚愕の様子を描いたものである。ただ、生涯人生の悦びを表現したルノワールだけに、悲劇がテーマでありながらあまり深刻さを感じさせない。そのため《神殿の舞》という題名に違和感はない。本作の対と思われるオイディプス王を描いた絵はルノワールの生前、南仏カーニュの彼のアトリエに掛けられていた。