丸紅アート・着物コレクション着物コレクション

白綸子地板橋に桜文字入文様絞繍小袖
白綸子地板橋に桜文字入文様絞繍小袖 江戸時代前期 伝来 岡尾家

1670年代後半の制作と考えられる小袖である。1650年ころになると、徳川政権の基礎も固まり、政策は文治主義を目指すようになって、民衆の消費生活も向上していった。1666(寛文6)年、小袖の文様を図示したファッション・ブック(『新撰御ひいながた』)が出版、市販されたのは、そうした社会情勢を如実に示すものであった。この本に図示された小袖の文様は、T字形の小袖の形体を一枚の画布と見なし、その右半分に片寄せて文様構成をしたものであった。なぜこうした構図が好まれたのか、その理由はつまびらかではないが、極めて特色のあるところから、このような文様構成になるものを、現在は寛文文様とか寛文小袖と呼んでいる。

本品は寛文文様の好例である。折れ曲がる板橋は鹿の子絞り、桜は刺しゅうで表現されている。花と春の文字が金糸で刺しゅうされており、わが国のシンボルであり、また春を代表する桜花を強く意識した文様となっている。こうした新意匠の創造は、小袖がファッションとして人々に意識されてきた、何よりの証拠と言えよう。

白綸子地籬に花丸文様染繍小袖
白綸子地籬に花丸文様染繍小袖 江戸時代前期 伝来 佐賀鍋島家家中

1680年代天和・貞享期の作と考えられる小袖である。文様の構成は寛文様式から、次第に小袖全体に広がりを見せるように変わっているが、なお若干の空間を残している。ツバキや桜、菊、水仙の花の丸を文様の主題とし、その余白に竹垣を思わせる格子が配されている。花の丸は刺しゅうと摺疋田で、格子の黒ずりで表現されている。現状は刺しゅう糸や摺疋田がかなり褪色しているので、格子の墨色が強調され、不調和感を抱かせるが、製作当初は鮮やかな刺しゅう糸の彩りや金糸の輝きによって、花の丸は強い主張を顕示していたと思われる。

花の丸は1687(貞享4)年刊行の「女用訓蒙図語彙」をはじめ、翌年出版された「都今様友禅ひいながた」にもみえ、友禅染では代表的な文様となった。1680~1690年代の流行文様であった。

この小袖は、上述のように文様構成になお寛文様式の名残りをとどめている上、文様表現は刺しゅうや摺疋田という、これまでの技法を主体にしながら、墨による彩色という新しい表現法を付け加えている点で、友禅染出現寸前の時代の製と推考される。

白綸子地岩に松藤文様染繍小袖
白綸子地岩に松藤文様染繍小袖 江戸時代前期

1690年代末元禄期の製作と考えられる小袖である。この時期は1692(元禄5)年刊の「女重宝記」に「その時々に流行した染衣装も、このごろはすっかりサイクルが速くなって、5年か8年で染めの好みも文様も、すっかり変わってしまう」と述べられているように、目新しいファッションが次々に追求されていった。その結果、染技法の進展は多彩色の流行をもたらし、意匠は一段と華やかなものとなったし、技法上にもさまざまな工夫が考案された。

本品は、そうした動向をよく示している好例である。文様は寿石に松と藤を配し、吉祥を表している。松は風雪に耐えて、常に緑の色を変えないところから不老長寿の象徴とされ、また藤はその松にからみついて、どこまでも“つる”を伸ばしていくところから、たくましい生命力のシンボルとされてきた。また寿石は天然石を貴ぶ中国の風習に倣ったものである。松を多弁な花形に造形している点や、寿石の部分には色を付け、立体感を意図した皴(しゅん)を杢目絞り風に筆描きで表現しているところなどは、時代に即応した工夫と言える。

濃緑縮緬地紅白梅懸泉文様友禅染小袖
濃緑縮緬地紅白梅懸泉文様友禅染小袖 江戸時代中期 伝来 金沢前田家家中

1715(正徳5)年前後ころと推考される小袖である。17世紀末の衣服のファッションは、染色技術や意匠の向上をみただけでなく、広幅帯の普及発展を促し、小袖の意匠の上にも大きな変化をもたらした。それは小袖の文様が幅の広い帯によって上下に中断されることを予測して、腰で上下に文様を分けたり、異なった配色や文様にするやり方であった。

本品は腰から下には勢いよく落下する滝を、上には雪輪や松皮菱、扇面形の窓を配し、それに梅樹を加えた意匠で、梅花という共通のモチーフで全体は統一されているが、梅樹も腰の所で分かれており、上下分割の意匠となっている。濃い緑の地色に対応するように、梅花は対比色の紅白で表現され、インパクトの強い配色となっているが、上に白場の大きな窓を作ることによって、配色の強さは弱められている。扇面や松皮菱、雪輪などの図形を取り入れた文様は、1687年ごろからの流行であったが、この意匠では図形の面白さもさることながら、空間を作ることによって、配色に落ち着きをもたらす意図があるように思われる。

染分縮緬地襷に菊青海波梅桜文様絞友禅染繍振袖
染分縮緬地襷に菊青海波梅桜文様絞友禅染繍振袖 江戸時代中期 伝来 前田家家中

1728~29年の製作と考えられる振りそでである。上下分割構成の典型であり、腰で上下全く異なった文様となっている。上は単色の斜格子という線による文様に対し、下は半円形を重ねた松青海波で松皮菱を形作り、その中に梅の折枝を加えている。下は友禅、絞り染め、刺しゅうと多彩であり、上とは対照的な意匠、表現となっているが、梅折枝をそでの振りに付け、また桜の折枝を大きなだて紋とすることによって、上下の文様につながりを付けている。

本品は、背裏に貼り付けられた一片の紅絹の墨書銘によって、1730(享保15)年に19歳で亡くなった愛娘の供養のために、父親の江戸浅草見附脇に住んでいた名主小西喜左エ門が、菩提寺に奉納した娘の形見の品であることが推察されるところから、振りそでの製作時期をほぼ特定できる貴重な遺品である。

吉宗が八代将軍となって、17世紀中ごろから続いてきた文治政策は終わり、質実を旨とした改革が断行されたが、美服への執着は断ち難かったことを、この振りそでは物語っていると言えよう。

黄絹縮地春の草花に雉子文様友禅染小袖
黄絹縮地春の草花に雉子文様友禅染小袖 江戸時代中期

18世紀の第2四半期、宝暦・明和ころの製とされる小袖である。この小袖はあまり目立たないが、帯を意識しての上下二分割の構成になっている。しかし、山上からすそ野に流れる小川や肩の方に山ツツジを配し、腰からすそにはタンポポ、アザミ、ツクシ、スギナなどを描き、晩春の野山の風情が全面に表現されている。

雉子は、わが国の代表的な野鳥で、晩春は巣ごもりの季節でもあった。雉子の肉は古来最高のもてなしとされ、婚礼の祝いにも用いられてきた。また「焼野の雉子」のことわざもあるように、巣にいる子を守って、野火が迫っても立ち退かぬほどの深い妻子への愛情の例えにもされてきた。つがいとして表現されているのは、そうした意味も含めてのことと言えよう。技法的には流水に見られるのびやかなのり置き、ち密な色挿し、精密な刺しゅうと、いずれも極めて優れており、高い水準に達していたことがうかがえる。

また文様としては、流水によって遠近感を表現している点が注目される。

染分縮緬地源氏物語文様友禅染繍小袖
染分縮緬地源氏物語文様友禅染繍小袖 江戸時代中期 伝来 松葉屋遠藤久右衛門

18世紀中ごろの作と思われる優品である。上下分割の構成になる華麗な小袖で、上には扇地紙、雪輪、松皮菱の形象を白あげとした美しいピンク地で、白あげのところには墨絵で源氏物語の一場面が、それぞれ描き入れられている。そして、さらに「帚木、空蝉、若紫、末摘花、紅葉賀」など源氏物語の巻名が刺しゅうで加えられている。腰から下は白地にして、海浦の景を繊細な友禅技法で染め上げ、上の好対照を成している。この海浦の景は、上の源氏物語を主題とした意匠に対応するものとすれば、帆掛舟や海辺の苫屋、山の端にのぞいている楼閣などからして、「明石」の巻と推考される。

加茂眞淵や本居宣長によって国学が提唱され、古典の和歌や物語の研究が広く行われるようになり、また一般の庶民にも謡が普及し、能に親しみを持つ人が多くなったのは、18世紀中ごろ以後のこととされている。本品は、そうした背景を基に制作されたものと考えられる。

茶紋繻子地木賊に花兎文様友禅染小袖
茶紋繻子地木賊に花兎文様友禅染小袖 江戸時代中期 伝来 千種屋

18世紀第4四半期ごろと推考される小袖である。江戸が将軍の居住地として都市の建設を始めたのは、1603(慶長8)年のことであるが、住民のほとんどは各地からの移住者であった。江戸で生まれ、江戸で育った移住者の子孫が、江戸の気質、江戸の文化という独自の世界をつくり上げたのは18世紀中葉(宝暦)以後のことであった。衣服の好みや風俗に顕著な特色が現れてきたのは1780年代から後の天明・寛政のころであった。

本品は籬(まがき)に菊の地紋を織り出した文繻子の生地に、友禅染で木賊にウサギの文様を染め出している。ウサギといっても具象的な姿は全く見えないが、木賊の間に配されている鳥かご状の形がウサギを象徴している。この形状は茶器の仕覆などに用いられてきた名物裂では「作り土」などと呼ばれてきたが、またこうした形状に花とウサギを造型した模様を織り出した角倉(すみのくら)金襴が著名であったため、この形状は花兎文様を連想させ、作り土イコール花兎という図式が出来上がったのである。

本品は洒落気を重視した江戸の好みを示しているとみられる一領である。

納戸紋縮緬地淀の曳船文様染繍小袖
納戸紋縮緬地淀の曳船文様染繍小袖 江戸時代中期 下絵 伝勝川春章

18世紀の第4四半期、天明・寛政ころの製と考えられる小袖である。小袖の文様配置は18世紀中ごろから、広巾の帯が普及し、結びの位置も次第に背後に統一されるようになった結果、腰からすそに重点が置かれるようになった。また、結髪が漸次大形化し、くし、笄(こうがい)などの使用が著しくなった結果、小袖の身丈を長く仕立て、すそ引きに着る着付けが一般化したことによって、すそ文様が普及した。すそ文様によって背後はバランスのとれたものとなったが、今度は前の方に文様がなく寂しくなった結果、すその文様を前見ごろから立づまの方へ持ち上げた文様構成、江戸づまが考案された。つま文様が最も流行したのは1770年代から80年代末にかけてであるが、つま文様は現在まで一様式として継承されている。

本品は典型的な江戸づま文様である。船を引いて川をさかのぼる景を文様としたもので、色挿しはほとんどなく、のり防染による白あげと墨による描き上げ、金糸の刺しゅうのみによる極めてしょうしゃな逸品である。江戸の浮世絵師勝川春章の下絵と伝えられている。

白麻地四時培花文様茶屋染帷子
白麻地四時培花文様茶屋染帷子 江戸時代後期 伝来 千種屋

19世紀の第2四半期ごろの製と考えられる帷子(かたびら)である。茶屋染の名は、この染め物の創始者である茶屋宗理の名字に基づくと言われているが、今日一般に茶屋染と言われている染め物は、極細の上質な麻の上布に、藍の濃淡を主体に、細い糸目糊置きを主軸とした技法で、ち密な草花や山水の文様を特色としている。この茶屋染の帷子は、将軍家の大奥や大名の奥の女性たちの夏の礼装として着用され、ユニホームとなっていた。

本品は、そうした服制で規定された武家の帷子とは生地や技法上は変わらないが、文様は四季の花や木の盆栽を主体としており、甚だ特色がある。盆栽の観賞は鎌倉時代に始まっているが、盆栽という名が生まれ、著しい進歩を遂げたのは江戸時代後期のことである。文人趣味の一つとして盆栽が愛好され、花木の形態によって、さまざまな異なった盆(鉢)が使用されるようになった。1830(天保元)年刊行の「金生樹譜」には62種の盆の図を載せており、それへの関心の深さが知れる。

この帷子も、趣味人の好みによって文様が選ばれたものと推考される。

紫縮緬地御所解文様染繍振袖
紫縮緬地御所解文様染繍振袖 江戸時代後期 伝来 岡尾家

19世紀の第2四半期、天保ごろの製と考えられる武家の妻女の振りそでである。封建制の下で、江戸時代も表向きは、衣服の上にも支配者階層と被支配者階層の間には、厳然たる区別があった。

この振りそでは、武家、特に将軍家の大奥や大大名の奥にあった女性たちの着用した典型的なユニフォームである。松や桜、梅、牡丹、紅葉、菊、流水、葛屋などを基礎素材とし、それに御所車とか几帳、檜扇、冠、轡、鎧など、古来有名な和歌や物語、謡曲などの一節を暗示するような点景物を配して、空間をあまりつくらずに密に文様を表現した山水文様で、今日では一般に御所解文様と総称している。衣服全体に文様を配した総文様と、上半身は無地で腰から下だけに文様を置いた半文様の区別があり、地位の高下を示していた。

本品は高位の人の着用したもので、御所車の近くに刈り取った芦の束と笠が置かれているところから、文様の主題は謡曲の「芦刈」と推察される。

白綸子地松皮菱麻の葉鶴丸と梅樹文様絞繍振袖
白綸子地松皮菱麻の葉鶴丸と梅樹文様絞繍振袖 江戸時代後期 伝来 岡尾家

19世紀の第3四半世紀ごろと推考される振り袖である。麻の葉に鶴の丸を鹿の子絞りに染めあげた大ぶりな松皮菱を散らし、その間に梅の老木を繍(ぬいとり)と絞りで配している。松、梅、鶴、麻の葉という吉祥文様から、婚礼の打ち掛けと見られる。

江戸時代の社会一般は士農工商と言われてきたように、家柄、身分、階層によって上下の別を明らかにする封建体制の下にあった。江戸時代を通じて、しばしば出された奢侈禁令も財政の立て直しを主眼とした場合もあったが、封建体制を維持するための一政策でもあった。つまり、経済力を握った町人たちの社会への影響を少しでも弱めようとした政策の表れであった。石高の多い大名を除けば、武士と裕福な町人との経済力の差は時代が下がるほど大きくなっていった。その違いは女性の衣服などに明瞭に表れている。

武家には武家服制という一つの約束があり、それなりに格調高いものであったが、意匠に加工法に知恵を絞り贅(ぜい)を尽くしたのは町方の衣装であった。特に一生一度の婚礼の晴れ着には、最高の技術、意匠を駆使したものが見られる。この打ち掛けも見事な逸品の一つである。

紅紋羽二重地大小梅文様絞染入り振袖
紅紋羽二重地大小梅文様絞染入り振袖 江戸時代後期 伝来 杉浦三郎兵衛

19世紀の第3四半期ごろの製作と考えられる振袖である。梅花の形を縫い絞りで白あげにし、その一つひとつの花形の中に薄藍と濃紫と薄茶で、21から24個の小さな梅花を糊置き、色挿しの方法で染め出し、地を美しい紅染としている。本紅でこれほど濃く、また鮮明な色合いに染めるには、材料の紅も染色の技術もよほど優れていなければできない。また小さな梅花を友禅で色押しするのも、なかなか手間のかかる仕事である。

またこのような散らし文様では絵羽にしなくても、それほど大きな違いはないように思われるのに、この振袖では丁寧に絵羽付けにしている。一見、何気ないように見えるが、材料や仕事を吟味した上での入念な製作であるから、高価なものであったと言えよう。このような外見はさり気なく見えながら、内実は手間、暇のかかったものを喜ぶ風潮は、表立っては武家に頭のあがらない、町人階層のうっ積した心理の表れであり、目立たないところに大金を投ずることによって、憂さを晴らしていた例証と言える。

紅浅葱紫縮緬地紋寄裂振袖
紅浅葱紫縮緬地紋寄裂振袖 江戸時代後期 伝来 島原傾城用

19世紀の第3四半期ごろの製作になる振りそでである。かなり皺(しぼ)の高い縮緬に、絞り染めで6種の文様を4色に染め分けた裂(きれ)地を縫い合わせている。不整形に切られた異なった色や文様の裂を縫い合わせて布面を作る方法を、縫い合わせとか、切り継ぎ、あるいは寄せ裂と呼んでいる。

小裂をはぎ合わせて、ある広さを持った布面を作るという考え方は、裂地の不足を補うためとか、残り裂の利用などから自然に考えられたものと思われるが、後には、はぎ合わせによって別の文様を構成することを目的とした美術的な意図の下に作られるようになった。その結果、寄せ裂を一つの文様と見なし、更紗や友禅の染柄にもそのパターンは利用されるようになった。

この振りそでは、寄せ裂文様の面白さに魅せられて、それぞれ1メートル余りの裂をはぎ合わせによって構成、切り継ぎしたもので、むしろ大変手間のかかったぜいたくな品である。一見、余り裂を寄せ集めた廃物利用のように見せかけながら、実は非常に高価な一品ものであるところに、江戸時代後期の封建社会の矛盾の中に生きていた富裕な町人階層の屈折した心理がうかがい知れる貴重な資料である。

京都島原の傾城が着用したものと言われる。

茶羽二重地兎宝引き文様一つ身
茶羽二重地兎宝引き文様一つ身 明治時代 下絵 伝上野清江

一つ身とは、えい児に着せる着物で、後ろ身ごろを通常の着物の織布いっぱいに縫製するところから名付けられた。

日本では通常、男児は生後31日または32日目に産土神(うぶすな)に参詣し、無事成長を祈る風習があるが、このとき抱いた赤子の上に掛ける祝着を宮参り着と呼んでいる。

本品は、上質な羽二重に可愛らしいウサギが宝袋を引いている戯画を、友禅で染め上げた紋付の一つであるところから、十二支のウサギ年に生まれたか、あるいはウサギの暦年にちなんで愛息のために作られたお宮参りの祝着と思われる。宝尽くしや宝袋の表現から、商家のものであろう。20世紀第1四半期ごろに友禅師、図案家、趣味人として著名であった上野清江の下絵によるものという。

黒縮緬地近江八景文様振袖
黒縮緬地近江八景文様振袖 1933年 上野為二作 (重要無形文化財保持者)

1933(昭和8)年、上野為二作の振りそでである。上野為二は1901(明治34)年、上野清江の長男として生まれた。彼は初め画家を志し、まず日本画を、次いで油絵を学び、文部省美術展などへ出品もしていたが、1925(大正14)年、父について手描き友禅の本格的な修業を始めた。その修業の一つに古典衣装の模写があった。それは友禅のさまざまな技法や本質を会得する最良の方法であった。

本品は古典の近江八景図に基づいているが、文様の構成や配色などには、作者の創意と時代の感覚がうかがえる。特にバックグラウンドの景色の霞ぼかしや、すやり霞の表現に新鮮さが見られる。

染分紋羽二重地菊に鶏文様訪問着
染分紋羽二重地菊に鶏文様訪問着 1935年 木村雨山作 (重要無形文化財保持者)

1935(昭和10)年、木村雨山作の訪問着である。木村雨山は1891(明治24)年に金沢で生まれ、14歳からこの地の特産であった染絵の技法を学んだ。

金沢は江戸時代から陶器、漆器、金工、染色などの工芸のほか、茶や能などの芸能も盛んなところであった。その伝統は明治以後も変わらず、1921(大正10)年には石川県が中心となって、石川県工芸奨励会が設立され、工人の養成と工芸の奨励、向上を目指した。翌年からは工芸奨励会展が開催され、工人たちは技を競った。

木村雨山は奨励会設立と同時に参加出品をし、1926(大正15)年には東京で開催された商工省美術展にも作品を出品入選しており、以後文部省美術展、帝国美術院展、日展、日本伝統工芸展などに作品を発表し続け、1955(昭和30)年には友禅染で重要無形文化財保持者に認定された。

本品は最も充実した仕事に励んでいた時期の作品であり、極めて個性的で芸術性に富んでいる。

鉄色紋縮緬地晴秋紅柿文様訪問着
鉄色紋縮緬地晴秋紅柿文様訪問着 1936年 上野為二作

1936(昭和11)年、上野為二作の訪問着である。やや濃い藍地に特に実った熟柿の枝を大きく衣装いっぱいに表現している。一珍糊を使って友禅の色押しをし、一部に金摺箔を加えて立体感を出した、当時としては極めて斬新な表現になるものであった。油彩画の勉強から得た技法を応用している点や、柿のような、これまであまり文様の主題とされてこなかった素材を、自己の感性で取り上げ、意匠としているところに、作者の先進的創作意欲が横溢している。

1936年は国内では二・二六事件やロンドン軍縮会議から脱退するなど、ファシズムへの動きが一層増大していったし、国外ではベルリン・ローマ枢軸が結成され、ヨーロッパでも緊張が高まっていた。「準戦時体制」が流行語になった一面、ベルリンで開催された第11回オリンピックでは、三段跳びの田島直人、水泳の前畑秀子、葉室鉄夫、寺田登などが優勝、国民を熱狂させた。そうした、不安ながら一時の喜びに揺れ動いていた人々の気持ちを、この文様の熟柿は象徴しているようでもあり、この衣装の持つ歴史的な意味は、極めて大きいと言えよう。

黒総疋田地献花文様振袖
黒総疋田地献花文様振袖 1936年 岡尾磯次郎作

1936(昭和11)年、当社主催の秋の美展で特選一席となった、岡尾磯次郎作の振袖である。華麗な花かごを載せた車を大きく、大小の鹿の子絞りと刺しゅうで表現している。刺しゅう以外のところは、すべて絞り染めとなっているので、制作には3年の歳月を要したという。戦争の足音が近づいていた中で制作された貴重な作品である。4年後の1940(昭和15)年には、高級な衣服の製造販売を制限した政令が公布され、染織業界はともしびの消えた状態となった。本品は、そうした歴史を語る上で、はなはだ重要な資料である。

黒縮緬地鶴亀四季草花文様振袖
黒縮緬地鶴亀四季草花文様振袖 1940年(紀元2600年記念芸能品) 松尾友蔵作

1940(昭和15)年、松尾友蔵作の振りそでである。この年は建国から2600年に当たるとして種々の運動が展開され、また時局に対する新体制として大政翼賛会が結成されて、国民意識の高揚が図られた。その一環として奢侈品などの製造販売を制限する規制(七・七禁令)が公布され、手間のかかる、あでやかな衣服の製作は一切できなくなった。

本品は、そうした動向には全く相反するものであったが、紀元2600年を記念する意味で製作された。まさに慶賀にふさわしい、友禅と刺しゅうによる豪華な振りそでである。

黒縮緬地日光山東照宮文様長着
黒縮緬地日光山東照宮文様長着 1940年(紀元2600年記念芸能品) 谷口豊作

1940(昭和15)年、谷口豊作の日常の着物である。雲取りを鹿の子絞りし、日光東照宮の杉木立と社殿は型友禅で表現している。型友禅と言うと、ある一定の長さで文様がリピートされ、また肩山で裂地を折り返しても、文様が一方向にならないよう構成されているのが通例である。

しかし、本品は一方向の文様で、しかも肩山で文様が逆さまになっていないし、文様のリピートは非常に長く、肩から裾までの間に文様のリピートはない。そういう点で、この長着は通常の肩友禅と違って、大変手間のかかる、高度な技術になるものである。紀元2600年を記念して作られた特注品として、歴史的にも貴重な作品である。

白繻子地段に菊桐文様縫箔
白繻子地段に菊桐文様縫箔 江戸時代前期 伝来 伊達家

この縫箔は江戸時代前期17世紀初めごろの製作と考えられるが、初めから能装束として作られたか否かは、一考する余地がある。現存する16世紀桃山時代と考えられる能装束は、ほとんどその当時日常に着用されていた小袖や打ち掛け、あるいは素襖などの流用と考えられ、能の装束として作られたものは極めて少ないように思われるからである。

本品は白繻子を腰から下には絞り染めによって紅と藍とに染め分け、紅の段には菊花を、藍の段には桐紋をそれぞれ刺しゅうで表し、上半身には大きく菊花と桐とをやはり刺しゅうで表出している。配色も多彩で、文様も大きく、派手な意匠であることから、一見芸能のための装束と見られるが、この衣装は桃山時代の驕奢な風潮を多分に残している。江戸時代初期のいわゆるだて者の小袖の一領と考えられる。桐の葉や花を三色に色分けして表現したり、繍糸を長く渡し、ふっくらと立体感をもっての繍法には桃山期の余映をなお多く残している。

紅白段菊水文様厚板唐織
紅白段菊水文様厚板唐織 江戸時代中期 伝来 岡山池田屋

地を紅と白の二色の段替わりとし、金糸を交えた絵緯(えぬき)で菊花と流れを織り出している。

厚板唐織というのは、文様や色目は唐織とほとんど選ぶところはないが、表着としてではなく、着付けとして用いられるところから、この名称が生まれたという。あでやかな優美な着付けであるから、主として公達物のシテに用いられてきた。

菊の花は中国で古くから薬にも使われており、わが国にもひとまず薬用として舶載されたという。9月9日の重陽の節句に菊花を浸した菊酒を飲み、災厄を払い長寿を祈ったのも、その薬効に基づいてのことであった。

長寿を願う心は神仙思想と結び付き、中国の南陽鄧州(現在の河南省内郷県)の山中、甘谷の谷川の左右には甘菊が繁茂しているところから、甘谷の水には菊花の滋液を含んでおり、これを飲めば長寿を保つという説話を生んだ。能の「菊慈童」もこの説話に基づいたものであり、菊花に流水の文様も同様である。

枡形籬に菊文様厚板唐織
枡形籬に菊文様厚板唐織 江戸時代中期 伝来 千種屋

正方形を対角線で切って、一方の正三角形は金糸で、他方は各種の彩糸で繍取りをしており、けんらんで力強い趣を呈している。上文の籬に菊も一間(ひとかま)の模様で、文丈(もんたけ)も長く、大きく表現されており、配色も明快で地紋に負けぬ強さを持っている。従って、全体としてははなはだ豪華で、しかも強く引き締まった印象を与える点、厚板唐織にふさわしい意匠と言えよう。

また、鋭角を強調した地文に対して、菊花は真円に表現されており、ここでも対照的な形による意匠の面白さを見せている。

菊は平安時代から籬に結んで植えられ、観賞されてきた。そうした実景を写した文様が最も流行したのは鎌倉時代と言われているが、その伝統はその後も長く受け継がれ、文様の一つのパターンとなってきた。この厚板唐織の文様はその伝統を受け継いだ一例だが、地文の扱いや配色によって、伝統的なパターンもその時代に即応した見事な意匠となることをよく示している。

白地聯角乱菊文様厚板唐織
白地聯角乱菊文様厚板唐織 江戸時代中期 伝来 千種屋

豪壮、雄大な花容を誇る厚物咲と優雅、壮麗な趣を持つ管物咲の菊花とを交互に配し、華麗な色使いで織り出した一領である。菊花を大振りに表現しているところは雄壮な男性を思わせ、華やかな配色は女性をほうふつとさせるものがあり、優雅な公達の着付けである厚板唐織にふさわしい意匠と言えよう。

9月9日は「菊の節句」「菊のうたげ」とも呼ばれて、内裏では天皇の御前に菊を飾り、群臣に菊酒を賜って延命長寿を祝ったが、平安時代には、この菊酒とともに「菊のきせ綿」ということも行われた。前夜に菊の花に真綿をかぶせて、その香と雫(しずく)を吸った綿で体を拭うと長寿が得られるという故事に基づいた習俗であった。

観菊やその栽培が庶民にも広まったのは江戸時代になってからで、1715年(正徳5年)、京都円山で菊花展が初めて開かれている。その後、この催しは毎年行われるようになり、新花を競い合ったので、菊は京都が本場となった。特に大輪の花は京都の得意とするところであった。本品はそうした文化の歴史を物語っている点でも興味深い。

緞子地染分け観世水に扇散し模様縫箔
緞子地染分け観世水に扇散し模様縫箔 江戸時代後期 伝来 伊達家

19世紀第2四半期、文政・天保のころと推考される縫箔である。紅白藍の三色の段に染め分け、配色を考えて市松取りにし、それぞれに細かい観世水の金摺箔を置いた上、さらに金地の扇を散らし、大変華麗で豪華である。扇面にはおのおの異なった草花文が繊細に刺しゅうで表出されている。

縫箔は文字通り刺しゅうと金銀の摺箔で文様を表しているところから、この名が付けられているが、大変用途が広く、女役に多く用いられる。女役ではそでを通して着ず、着付の摺箔の上から腰に巻いて、そでは後方へ垂らす腰巻きという着方をして、その上に長絹や唐織、水衣などを着るため、人目にはすその方しか見えない。しかし、美しいぬいとりと箔の文様は装束全体に付けられていることが多く、唐織、厚板とともに大変華麗な装束である。

繊細な技術と華麗な配色によるゴージャスで優美な遺品は少なくないが、本品は屈指の逸品である。

紫地篭に下り藤胡蝶文様
紫地篭に下り藤胡蝶文様 江戸時代後期 伝来 竹尾家

長絹というのは元来は絹織物の一種の名称であったようだが、室町時代には上層武家の少年が着た装束の一つを指していた。また長絹と呼ばれていた生地で作られた狩衣や直垂などを長絹の狩衣、長絹の直垂と言わず、略して単に長絹と呼んだこともあったという。それでは、その長絹と称したのは、どんな織物であったのだろうか。残念ながら全く分からないというのが実状であり、装束としての長絹も皆無である。

能装束の長絹も、恐らくは拝領の長絹の直垂などを羽織って舞ったのが、次第に能特有の装束に定着していったものと推考される。

能装束の長絹の最も一般的なものは、三越の絽地に金糸や絵緯で文様を織り出した絽金である。また文様の付け方も種々あるが、代表的なものは背の中央と両そでの真ん中、前では左右の胸に紋のように大きな主模様を置き、すその方に小文様を散らした構図になるものである。

そうした点から、本品は最も典型的な長絹である。長絹は、多く舞を舞う優美な女の役柄に広く着用されているし、男役でも優美さを内包した役柄に用いられているので優雅な文様が多いが、本品はことにその感が深い。

【特別編】いにしえの技術をいまによみがえらせる「伝・淀君の小袖」復元
【特別編】いにしえの技術をいまによみがえらせる「伝・淀君の小袖」復元 【ついに完成した『淀君の小袖』】

丸紅が設立50周年記念事業の一環として、約3年半の歳月をかけ取り組んできた「伝・淀君の小袖」復元プロジェクトが完成しました。

これは、豊臣秀吉の側室“淀君”の時代(1567~1615)、つまり安土・桃山時代の衣装を現代によみがえらせようという壮大な取り組みです。

【養蚕から手織りまで】

それは、丸紅所蔵の時代衣装「辻が花染小袖の一片」から端を発したプロジェクトでした。左上方の縫い込み部分に「ふしみ殿御あつらへ」と読める墨書きがあり、豊臣秀吉の側室、淀君着用の小袖の一部と推測されているこの一片から、壮大な構想が静かに始まりました。そして、養蚕から糸作り、織布、絞り、染め、仕上げまで、400年もの昔をできる限り忠実に復元しようというこの構想を現実のものにするため、多くの専門家の方々の知識と技術が結集されたのが「伝・淀君の小袖」復元プロジェクトです。

当初、プロジェクト全体をご指導くださったのが、東京国立博物館名誉会員で文化財保護の権威である北村哲郎先生。しかし、途中で先生が亡くなられ、京都国立博物館の河上繁樹先生にあとを託すことになりました。養蚕から手織りまでは、北村先生の推薦により、つむぎ作りの権威である(財)萬世協会の山崎隆・京ご夫妻に一任されました。

養蚕は、97年5月より始まりました。小袖の現物に最も近い、極細で柔らかく強い糸を取るため、日本古来の蚕の原種のひとつである“小石丸”の、元気で健康な春蚕(はるご)のみを使用。さらに、京都工芸繊維大学名誉教授の布目順郎博士のアドバイスにより、繭の中のさなぎ処理は、中国の古い文献に登場する塩蔵(塩づけ)という手法で行いました [1](写真番号と符合、以下同様)。この手法は、通常の熱風で処理する乾繭(かんけん)と違って、繭を傷付けず、糸が取り出しやすく、さなぎのにおいもなくなります。

その後、繭を取り出し、水を張った特製の鍋に入れて炊きながら、1本ずつ手で繊維を引き出す「手繰り」 [2]、さらに良質の谷水にわらの灰を入れ、その灰汁(あく)で糸を炊く「灰汁練り」へと工程は進みます [3]。

実際に手掛けたのは、奥様の山崎京さん。糸づくりから手織りまでの手作業を、ほとんど1人で完成させました。織り作業をするためには、まず機ごしらえを行います。最初に縦糸にするため整経し、糸を15メートルほど千切に巻き、それを機に載せて糸を引き出して綜絖(そうこう)、竹筬(たけおさ)に通し、織り手の手元にある前棒につなぐのが機ごしらえですが、全部で1、560本もの糸を1本1本作業していく大変な作業です。また筬には、現代では通常、金筬を使いますが、復元のための極細糸に対応するため、特注の竹筬を使用。この筬は、10センチに400本近い糸を通す、非常に細い目のものです。この機ごしらえができて初めて、京さんは「これで反物ができる」と確信し、バンザイをしたくなったほどだそうです。さらに織りの際には、復元のため京さんが独自に工夫したリズムと力加減で丁寧に作業 [4]。こうした手作業の末、98年3月初旬に、美しく気品のある光沢、程よい張りと柔らかさの白生地が誕生しました。

【染め工程】

白生地完成から約1年がたったころ、プロジェクトは「辻が花染め」と呼ばれる絞り染めの工程を迎えました。「辻が花染め」は、ち密に縫い絞る技法と、墨で縁取りして金銀箔を張り付ける技法を融合したもので、安土桃山から江戸初期に頂点を極めた方法。その完成品は、華麗なる芸術作品と評されるほどです。

この絞り染めに入る前工程として、白生地の凸凹や不ぞろい部分に蒸気をあててそろえる「湯のし」をし、白生地を裁断し軽く仮縫いして「下絵羽」にします。続いて、あらかじめ「下絵羽」に絵柄を筆で入れる「下絵」、さらに下絵に沿って糸で縫う「糸入れ」の工程へ。これらの工程、そして絞りまでは、すべて京都のマツヰ染繍、松井社長の下で行われました。

そして、いよいよ絞り染めです。絞りは、染めない部分にビニールをかぶせ麻糸できつく縛る作業で、形状から“帽子”と呼ばれます [5]。今回は、糸入れから半年近くを要する手間と時間のかかる作業となり、いかに絵柄が細かく微妙かがうかがえます。 染めは、群馬県の重要無形文化財で草木染めの第一人者である草木染め研究所所長、山崎青樹氏に依頼。現存する小袖の現物から判断し、染めは3回の作業を重ねることになりました。1色目は緑。また、約400年前の現物は退色しているため、当時の発色を推測しながら山崎氏の豊富な経験による勘を頼りに色合いを決定することになります。

結局、氏の判断により、深く渋味のある微妙な緑は、藍染めの青と奈良時代から伝わる“刈安”という草を使用した黄を重ねてつくられることとなり、藍色から染めることに決定 [6]。染め上がりは、山崎氏にも満足のいくものであったそうです [7]。

2色目の赤は、厳密には「紅(くれない)」という紅花で染めた色です。染料は、山形県産の花餅を使用。花餅は、黄の成分を抜き、うすでついた後、一晩おいて陰干しして作ります [8]。炭酸カルシウム入りのアルカリ水に、この花餅を2~3時間漬け、絞って紅を抽出し、染めていきます。紅花は熱に弱く、温度に気を使いながら作業が進められ、紫外線で変色しやすいため、染色後は室内で乾燥します [9]。

赤の次、3色目の染めは黒です。厳密には檳榔子黒(びんろうじぐろ)と呼ばれる焦げ茶に近い色だそう。この染めは、室町末期よりの手法にのっとり、5種類の植物を使用 [10]。この5種類は、それぞれ微妙に違う色あいが、深みのある黒を出すことを可能とするそうです。せんじてろ過した一番液と、さらに水を加えてせんじてろ過した二番液を混ぜた染液に浸し、鉄媒染などの作業を施した後、さらに三番液を加えた染液に浸す、など工程を重ねます。

こうして染色までを終えた生地は、その都度乾ききらないうちから絞り糸をほどいていきます。この作業は、ほどくだけで何日も要するほど細かい作業です。3色目までを終えた、この段階で全体指導の河上先生にチェックをいただき、次の部分染め工程に進みます [11]。

【部分染め工程】

3回の絞り染めを終え、部分染め工程の最初は、黄色の染めです。染料には「梔子(くちなし)の実」を細かく刻み、煎じてろ過した染液を使用し、浸け染めをします [12]。この工程では、熱に弱い赤のため「温染(おんせん)」にし、また日光堅牢性に弱い「梔子の実」の黄のために陰干しする、という作業を数回繰り返します。

最後は、1色目と同じ藍色の部分染めです。場所も1色目同様、藍瓶のある群馬県高崎市の染料植物園で行われました。瓶に5分浸し、染料が行き渡るよう、しかも帽子がほどけないように丁寧に手で揉みます。その後引き上げ、すぐに水洗い。この作業を5回繰り返し、ようやく満足のいく藍色に染め上がりました [13]。

こうして染めの全工程を終了し、生地は再び京都へ。下絵を担当されたマツヰ染繍、松井青々氏に渡り、筆による彩色と補正が行われました。所々に残された白地の部分に、花びらの模様が描かれた後、補正に移ります [14]。絞り染めでは、隣り合った色と色の間に必ず多少の白い隙間ができます。その隙間を筆によって埋めていくのが補正です。この工程は、初期の辻が花染めにはあまりなく、絞り染め本来のぼんやりした輪郭よりも、くっきりした輪郭と豪華さが好まれる桃山時代に入ってから生まれたものだそうです。この工程で、紋様の彩色はすべて完了し、仕立てへと進んでいきます [15]。

【仕立てから完成まで】

仕立ての舞台は東京。「日本のきものを守る会」主宰であり、村林流和裁学苑苑長でもある村林益子先生にお願いしました。村林先生は、テレビ・婦人雑誌などを通じて、仕立ての技法のみでなく、身に着ける方への心遣い、反物に対する思いやりなども説く、仕立ての第一人者です。小袖の仕立ての際も、実際に淀君が袖を通すことは決してないにもかかわらず、身に着ける方への並々ならぬ思いやりと、生地を大切に扱われる心構えとが印象的でした。

作業は、まずヘラ付けから始められました。隣り合う生地の模様のつながりを合わせながら、コテであらかじめ折り目をつけます。そして縫いの作業に入ります。縫いは、模様に合わせてその都度糸の色を変える、というきめ細かいもの。表からは見えない、こうしたところにも、先生の奥ゆかしい心遣いが感じられます。また、絞りの加減で生地の模様が合いにくい部分は、縫いつつ表と裏から何度も確認を繰り返します [16]。出来上がった表身ごろと裏身ごろを合わせる段階で、厚味を出し保温性を高めるために、薄く伸ばした真綿を中に敷きます [17]。そして、ようやく完成へ [18]。

こうして皆さんのご協力の下、約3年半の歳月をかけて出来上がった小袖は、図柄構成の大胆さ、色使いの鮮やかさが印象的な素晴らしい作品となりました。 このみやびやかな小袖を、当時の華であった淀の方が召されたかと思うと、感慨深いものがあります。 復元された小袖は、今月から東京・大阪の高島屋で開催される、設立50周年記念の丸紅アート・着物コレクション展でお披露目されます。ぜひ皆さんお誘い合わせて、素晴らしい、いにしえの芸術ともいえる作品をご覧になってください。

掲載しているのは所蔵コレクションの一部です。