サンドロ・ボッティチェリは本名をアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペピといい、1444年または1445年にフィレンツェで生まれ、1510年同地で没しました。幼年時代については記録が少なくよく知られていませんが、13歳で金細工の修業に出されたのち、当時フィレンツェで人気のあった画家フィリッポ・リッピの工房に入りました。師リッピの画風を継承するとともに、ヴェロッキオやポッライウォーロなどの影響を受けましたが、やがて流麗な線を巧みに駆使した独自の様式を確立しました。
1470年に最初の注文を受けて以来名声が高まり、1473年末にはピサの大聖堂のフレスコ画を描くように要請されました。1478年のパッツィ家の陰謀を契機にメディチ家の庇護を受けてからは評判が一段と高まり、1470年代後半から1480年代にかけて、「春」や「ヴィーナスの誕生」などの傑作を描きました。
しかし、1490年代以降はサヴォナローラの影響を強く受けて、中世的、宗教的色彩の濃い作品を多く残しています。
死後、彼の名は美術史上からほとんど忘れかけられましたが、19世紀にラファエル前派が価値を再発見し、レオナルドやミケランジェロに比肩し得るルネサンスの巨匠として認識されるようになりました。
この作品のモデルと伝えられるシモネッタ・ヴェスプッチは1475年にロレンツォ・ディ・メディチ主催の「大騎馬試合」で美の女王に選ばれた絶世の美女で、同試合の勝利者となったロレンツォの弟ジュリアーノの恋人と噂されましたが、胸の病で1476年に22歳の若さで夭折しました。彼女の美しさと、ジュリアーノとの恋物語はポリツィアーノやボッティチェリやピエロ・ディ・コシモなど多くの詩人や画家の想像力を刺激しました。ボッティチェリの傑作「春」や「ヴィーナスの誕生」も彼女をモデルにしているといわれています。