藤島武二は、1867年9月に現在の鹿児島市に鹿児島藩士の三男として生まれ、1882年ごろから地元の画家、平山東岳に師事し、日本画を学びます。1884年に上京して川端玉章の門に入り日本画を学んだ後、洋画に転じ、會山幸彦、山本芳翠に師事しました。1891年、明治美術会第3回展に後輩の白瀧幾之助の名で「無惨」を出品、森鴎外に称揚されます。1893年、三重県尋常中学校助教諭として津市に赴任。1896年、東京美術学校西洋画科新設と同時に、黒田清輝の強い推薦で同科助教授に就任。同年、黒田清輝らが創立した白馬会にも参画し、毎年同会展覧会に出品しました。
1905年に渡欧し、フランスで歴史画を得意とするフェルナン・コルモンに、イタリアで肖像画を得意とするカロリュス・デュランに師事します。1910年帰国後、東京美術学校教授に着任、帝展審査員、帝国美術院会員となりました。1937年に岡田三郎助とともに第1回文化勲章を受章し、「洋画壇の元老」と呼ばれています。
当社所蔵のこの作品は、近景に雑草の生えた砂浜を、中景に穏やかな海を、そして遠景に江の島を描き、明快な外光派の手法を顕著に示しています。記録によると、1898年秋の第3回白馬会展覧会に出品された油彩画8点のうち「池畔」を除く7点が海辺の風景を描いたものです。特に「浜辺の朝」という作品は、若干視角は違っていますが、これと全く同じ場所が描かれています。
また、T.Foudjshimaという右下のサインは、1895年の明治美術界展覧会に出品された「少女」や、1896年の第1回白馬会に出品された「春の小川」に見られる初期サインの綴法と同じものです。従って、この作品は1898年に描かれたとみて、ほぼ間違いありません。
なお、初期白馬会時代の大部分の作品は、今日では見ることができません。わずかに現在、東京芸術大学芸術資料館に所蔵されている、この絵のヴァリアントである「浜辺の朝」や、第3回白馬会展に出品され、1900年のパリ万博にも出品された「池畔」、第6回白馬会展に出品された「造花」など、いくつかが残っているに過ぎません。この絵は、藤島武二の初期白馬会時代の貴重な作例です。