丸紅の歴史古川鉄治郎という「近江商人」
丸紅商店専務が故郷・豊郷に建てた理想の学び舎
滋賀県犬上郡豊郷町には、江戸時代の五街道のひとつである中山道が通っている。街道沿いには伝統的な民家が建ち並び、外壁や柵に弁柄塗りをほどこした家も多い中、広大な敷地に噴水を備え、壮麗な佇まいを見せる白亜の西洋建築がある。豊郷小学校旧校舎群だ。1921年から1940年まで丸紅商店の専務を務め、丸紅の礎を築いた古川鉄治郎が故郷の子どもたちのために私財を投げ打ち、1937年に完成させた。設計したのはアメリカ人の建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズだ。小学校は2004年に新校舎へ移り、旧校舎は現在国の登録有形文化財になっているが、その一部は図書館や教育委員会、育児支援施設として使われている。
前面に大きな窓を配して天井を高くした校舎は採光に優れ、電灯を使用する必要はほとんどなかったという。広々とした廊下の幅は、約3メートルだ。3階まで続く階段の手すりには、うさぎとカメがかけっこをする真鍮のオブジェが置かれている。
伝えられるところによれば、豊郷小学校のシンボルを作ろうとヴォーリズから提案されたとき、古川の頭には尋常小学校を卒業するときに恩師から言われた言葉が浮かんだという。
「誰も見ていないところでも努力し、ゆっくりでもいいから前へ進んで行きなさい」
優秀で社交的な兄とは違い、動きが遅くていじめられっ子だったという古川少年に、恩師はイソップの寓話を話してくれた。兄と同じように高等教育を受けたかったが、油屋を営む実家は裕福ではなく子沢山で、古川少年は進学をあきらめざるを得なかった。11歳になると親元を離れて大阪へ行き、叔父である伊藤忠兵衛のもとで丁稚奉公を始めた。
近江商人の精神「陰徳善事」と「三方よし」
伊藤家で商売を学び頭角を現した古川は、のちの伊藤忠商店の支配人を若くして務めた。
1921年に設立された丸紅商店では与信制度や予算制度など近代的な経営管理を導入し、同社を貿易商社へと成長させた。
「古川鉄治郎の経営哲学は、近江商人が到達した精神である『三方よし』(売り手によし、買い手によし、世間によし)と『陰徳善事』の実践に尽きるのです」
こう話すのは、滋賀大学で商業史を研究する宇佐美英機特別招聘教授だ。「古川は相手に喜ばれる経営――相手を潰さない、相手の体力に応じた商い――を貫きました」
故郷から離れた地で商いを発展させるのが近江商人の特徴であり、日本を代表する数多くの企業が近江商人をルーツに持つ。古川の視線はさらに遠く、海の向こうにも向けられた。1928年、実弟である義三の海外視察に同行し、7カ月かけて欧米諸国を旅した。米国訪問中、製造業やデパートの効率的な経営に古川が驚嘆した様子が、義三の著書『世界ひとのぞ記』に記されている。
古川兄弟がとりわけ感銘を受けたのは、スタンフォード大学だった。同大は、鉄道王のリーランド・スタンフォードが病気で早世した一人息子を偲び、巨額の私財を寄付したことによって作られた。「世の中には財産を作る人は沢山にあるが、作った財産の処分をうまくやっている人は少ない。日本内地の財産家は(自分が作った財産を)無理に子どもに伝えようとして、却って馬鹿息子を出している」と義三は嘆き、日本人はスタンフォードの財産処分法を見習うべきであると書いている。
「自分はいっさい口を出さない」
「世間から得たお金は世間へ還元する」という近江商人の理念を受け継ぐ古川鉄治郎は、スタンフォードの行ないに感動し、みずからも理想の教育を実現するための小学校を作ろうと思い立った。土地を買収し、建設にかかるすべての費用を個人で負担した。
「いちばん理想的なやり方で学校を作ってほしい。それができる人に任せて、自分はいっさい口を出さない―それが古川のスタンスでした」と先の宇佐美教授は話す。
昼寝をしているうさぎを仰ぎ見るようにして、階段の手すりを一歩ずつ進んで行くカメは、これまで多くの子どもたちに触られて変色し、黄色と緑のまだらになっている。うさぎを追い抜いたカメは階段のてっぺんから、大きな窓越しに雄大な景色を眺めている。